
いま訳している本で、機械は意識を持てるか、みたいな話をしていて、ヴォクト・カンプ試験がどうだ、チューリングテストがどうしたこうした中国人の部屋が云々、というこの手の話にちょっとでも興味を持った人なら百回は読んだ話が延々蒸し返されていてあれだ。
でも、そこで「意識 (consciousness)」と呼ばれているものに、ぼくはかなり違和感がある。そこで言っているのは、「知性」みたいなものの話であって、「意識」の話じゃないのだ。これはいろんなSFとかでもよく見かける混同。
たとえば犬や猫を飼っている人なら、こういうケダモノどもも多少なりとも意識を持っているだろう、というのはほぼ自明だと思う。もちろん、イルカとかチンパンジーとか、もっと高い知能がありそうな生物もいて、それが意識を持っているのもほぼ確実だ。犬や猫だって、知能は低くても意識はある。
訳してる本は、機械が意識を持ったら人権はあるのか、と問うているんだけれど、よほどイカレた動物権利論者でもない限り、犬や猫に人権があるとは言わないわな。その意味でこの本の「意識」ってのは何か別のものだ。
もっと下って、ウシやネズミにも意識はありそうだ。ゴキブリも蜂も、イヌに比べれば原始的なものかもしれないけれど、意識はありそうだ。サボテンや木や草は……どうだろうなあ。ミミズやゾウリムシになると、なんか意識と言えるほどのものではないようにも思うが、それでも何かしらのアレはありそうだ。
意識にも諸説あるんだけれど、そのときの「意識」って何、というのは、ぼくは人によってここらへんのレベル感がやたらにちがっているので、議論がかみ合わないことがままあると思う。ペンローズは、意識は微小管だっけ、その中の量子作用で起こるとか、わけのわかんないことを言うけど、その「意識」って何? ゴキブリの意識もそうなの? もっと高い知性の話をしているの?
あるいは、意識というのはその生命体が自分自身のモデルを内部に抱くようになることで生まれる、というだれだかの説がある。人間はそうだ。サルくらいはそうかもしれない。でもイヌは? ミドリムシは? それは意識なの、知性なの? ぼくはこういう説は、その両者を無意識にごっちゃにしていると思うのだ。
その意味でぼくが意識についての議論でいちばん納得がいくのは、谷淳の説。
この人はロボットに意識らしきものを発生させるというおもしろい研究をしているんだけれど、そもそもなんで意識なんてものがいるのか、と問う。デネットとかは、刺激を受けて有害なものを回避する、有益なものを得ようとする、という刺激→反応を複雑にしたものが意識だ、と言うようなことを言う。でもコンピュータでわかるように、それだけなら意識なんかいらない。論理演算するのに意識は必要ない。
逆に、8時に目覚ましのベルを鳴らす、というような方針→反応のプロセスだけでも、意識なんかいらない。論理回路を組めばいいだけ。
意識というのが必要なのは、脳からのトップダウンの命令と、感覚器からのボトムアップの刺激反応とが矛盾する場合だ。その両方がぶつかることで、その判断の回路に決定論的カオスが生じる。それが意識なんだ、と谷は主張する。
これがおもしろいのは、自由意思問題からうまく逃げられること。この発想だと、同じ刺激と同じトップダウン指示を与えられると、結果は常に同じだ。意識はあっても、好き勝手に結果は決められない。決定論的カオスなので、結果は決まっている。
ただし、どう決まっているかは、やってみるまでわからない。自分がどう動くかはだれにもわからないのだ。自由意思というのもしばしば、いろんな意味が交じり合っている。あらゆる可能性がある、というのが自由意思だと思っている人もいる。でも、それはあらゆる行動がランダム、という意味ではない、とデネットやフランクファートは述べている。自由意思はしばしば、だれになんと言われようと信念を貫く――つまり予想通りで絶対に変わらない――をもたらすこともある。つまりそうした自由意思理解自体が怪しいけれど、そうでなくても可能性は一つしかなかった。その意味の自由意思はない。でも、どうなるかわからない、という意味で自由意思が使われることもある。そして、カオスなので確かにどうなるかはわからない。そうとらえるなら自由意思はあるように見えるとも言える。
ぼくは、これは結構納得できる。人生で、同じ刺激を受けると同じ反応を自分はするんだな、と思い当たるときがときどきあるのだ。手を抜かない、という例えのときについ「仮面ライダーは一介の戦闘員を倒すにも全力を尽くす!」という昔仮面ライダーカードで読んだたとえを使ってしまうとか。人生で二回、高松の大アーケード街を、飯屋を探して歩いていたときに、同じフランス料理屋に入って同じ料理を頼んでしまったとか。どうも自分は、自由になんか意思決定しておらず、かなり決まった反応を示しているだけかも、と思うのだ。
そしてこの発想だと、「意識」と知性というのはある程度は切り分けられる。ゴキブリをたたきつぶそうとして追いかけると、ゴキブリがときどき明らかに迷うのが見える。頭の命令と、感覚器からの指示が対立して混乱しているのだ。そこには意識はある。でもそれが、選挙権をくれてやるべき意識かというと、それはまた別次元の話だ。
が、それはさておき、「意識」というのはこのようにはっきりしない。英語ではさらに、このConsciousnessは良心という意味もあるので、これまたこの単語に無用なニュアンスを加えて、話がさらにやっかいになっているという……
するとね、コンピュータは意識を持てるか、というのはシンギュラリティが実現するか、というのとはちがう話になるし、するとこの訳書での議論というのはかなり混乱しているんじゃないか。おもしろい議論もあるんだけどね。