
はじめに
はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第6章「災厄SF」。
下巻は、SFの主要テーマ別の論説となる。
ちなみに、本書の構成は変で、最初に予定されていた構造/社会/テーマというパートわけが途中でうやむやになるんだけど、わかりにくいしだらだらするので、その予定通りのパートわけをこちらで導入している。
さてこの第6章は、これまでの構造主義の話なんか一切忘れて、SFの大きなテーマの大災厄、地球滅亡の話になる。レム的にはもちろん、SFはクズばかり。ウェルズ、ステープルドンは人類の滅亡を描いてそれがもたらす様々な問題について考察して見せてえらかったけれど、その後の連中はバカばかりで、地球を破滅、人類滅亡の話をくだらないギャグのネタに使ってみたり、人類破滅なんか必要ないような安易なお話をするのに、単なるおどろおどろしさを加えるのに使っていて、嘆かわしいねえ、という話。
でもレムはそこで、なんか不思議な倫理観をみんなに押しつけようとする。なんか、おふざけで「人類滅亡しちゃいましたー」みたいなギャグは許せんのだそうな。それはやってはならないことなんだって、どうも、当時核戦争の危機が目前に迫っている状況で、それについて考察すべきこと、言うべき事がたくさんあるはずなのに、ネタに使うとは何事か、ということらしい。
そしてその後、大災厄においては人類の極限状況を描かねばならないということで、突然、サド (それとドストエフスキー) の話が延々と展開される。その分析自体は見事なんだけれど、なんでそんなものが出てくる? SFが(それも具体的にどれかわからず、レムが見かけたたった一つの作品)、そういう極限状況での道徳の転覆みたいな話を安易に扱っているのがけしからん、という話から、サドを見ろ、ドストエフスキーを見ろ、という話が出てくる。
でもさあ、そんな一作だけの話を元に「SFは〜」とでかい主語で言われてもなあ。さらに、サドやドストエフスキーに劣ると言われましても。だそうですよ、藤井さん! ドストエフスキーに勝るものを書かないとダメじゃないですか!!
そうでないと無価値の偽物のインチキのセコいショックバリューだけのくだらないウンコだそうですよ!
いやそんなこと言われてもねえ、そりゃサドやドストエフスキーには負けるだろうよ。でもさあ、だからって全否定されるべきってことにはならんだろー。
本章のあらすじ
あらすじと言ってもねえ、何かこう、明確な結論に向けた、構築的な理論展開があるわけではないのだ。例によって、レムがその場の思いつきをひたすらタイプして話を発散させるだけ。だからあらすじと言っても、上で書いたこととほぼ同じ。まあ細部を少し足す感じであらすじを作ると……
昔から人類破滅や世界の終わりはあったけど、いま (=1960年代) は冷戦の核戦争の危機のため、世界滅亡がずっとリアルになってるぜ! だから世界の滅亡を描くSFがでかいツラするようになってるけど、いい気になんなよな!
みんな破滅モノSFって、まず実際の核戦争とかに到る道筋をきちんと書けないし、また各戦争後に人類が昔と同じ歴史的な道筋をたどるようなくだらん話ばっかだよな! 『博士の異常な愛情』とか『渚にて』はちょっといいとこもあるけど、凡庸だわな。
さらに人類滅亡をネタにしたギャグSFみたいなのもいっぱい出ていて、嘆かわしい。ネタにしていいような話じゃないだろ。
核戦争以外の終末ものも、くだらない。話の本質には関係なくてショックバリューを挙げるために、派手な滅亡が持ち出されるだけ。
破滅が読者を惹きつけるのは、精神分析的な説明もときどき聞かされるけど、あの手の説明ってすべて後付のインチキな疑似理論でしかなくて有害無益。
破壊テーマが人気あるのは、ある意味でサディズムの表現みたいなもので、既存秩序の破壊を喜ぶみたいな話だ。でもサドは、破壊するだけで事足れりとはしなかった。知的な文化的秩序を破壊することで人間を貶めるという、理知的な歓びをベースにした高度な話がサドだ。ドストエフスキー『地下室の手記』にもそれが見事に出ている。SFはダメね。カミュ『ペスト』の足下にも及ばないわ。
訳者の感想
サドの分析とか、非常に鋭利で感心する……んだけれど、読み返してみても、そんなものがここに入る必然性が何も感じられない。途中に入る精神分析的な芸術理論への批判もごもっともなんだけど、ここにそれを書く必要は何もない。
確かに世界の終末を使ってもっとすごくシリアスな人類文明についての考察を行うことはできるだろう。それは大いにやってほしい。でも、そんなのを目指さない小説もある。さっきも言ったけれど、ドストエフスキーに負けてるといって、だからSFはすべて無価値です、ということにはならないのだ。志が低い、という指摘はその通りかもしれない。でもあらゆる作品が文明や人類の難問をグリグリ追求する超問題作である必要はない。サドがいいなら、サドを読めばいいのではないだろうか。でもサドとか、読んでて疲れるじゃん。
多くのSFが、同じ構造で設定を変えただけ、という指摘は正しい。でもね、だからダメとか二番煎じとかは言えない。設定変えたことで、それにより表現されるポイントが伝わりやすくなることだってある。
人類滅亡をSFのギャグねたにしてはいけないというけれど、その理屈もよくわからない。『銀河ヒッチハイクガイド』で地球はバイパス建設で一瞬でつぶされるけど、それが何か非難されるべきものだとは思わない。
ここも例によって、レムの変な生真面目というか純潔主義的な価値観が露骨に顔を出している。
ましてそれを、いま冷戦で核戦争勃発前夜だあ、ナチスのホロコーストがあったばかりだろう、それを茶化すことはまかりならぬ、みたいな議論というのは、それ自体が抑圧的なものいいじゃないの? むしろそのほうが、そのナチスその他に通じる道ではないの?
だから全体としては、確かに人類滅亡をもっとまじめに考察することはできるだろう、でもそれしかやっちゃいけないんですか? というだけの話で、このテーマについての考察として本当に意味があるんですかねえ。全体に、結局何なんですかという感じで、きちんとした理論がまとまっているとはとても言えない。レムの独善的な視点を開陳しているだけ、としか思えない。
次はロボットなんだが
次の章はロボットで、『未来のイヴ』の長い引用から始まっている。まあ同じような独善理論の開陳に終わるのは見えているんだが…… ま、お楽しみに