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チャンドラー「長いお別れ」山形訳への物言い

チャンドラー「長いお別れ」山形訳 AI作成表紙画。暗い中、店の前にトレンチコートと帽子をかぶった男、その後ろに青いブロンド女、その横にアメ車が並び、アメ車の上にネオンサインが出ている。
チャンドラー「長いお別れ」山形訳 Grok作成表紙画

チャンドラー「長いお別れ」訳について、物言いがついている。

abraxas.hatenablog.jp

えーと。

A low-swung Jaguar swept around the hill in front of me and slowed down so as not to bathe me in the granite dust from the half mile of neglected paving at the entrance to Idle Valley.

これについて

「車高の低いジャガーがおれの前で丘をめぐり、(中略)こっちに花崗岩のホコリを浴びせないように速度を落とした(山形)」も状況を読めていないと思われる。

村上訳だけが「車高の低いジャガーが私の前を走っていた。それは丘の斜面を軽快にカーブを切りながら進んでいたが、そのうちに速度を落とした」と「カーブ」に言及している点が評価できる。

だそうな。でも、そのカーブというのは、swept around the hill というところから読み取るしかない。これは丘のまわりを迂回して巡っているということだ。だからぼくは「丘をめぐり」という訳語を選んでいる。当然、丘のまわりをカーブはしてるんだろう。でもそれはまわりをめぐっていることから当然出てくる話だ。これで「状況を読めていない」というのは不当じゃないかな。

そして村上訳は「丘の斜面を軽快にカーブ」とある。でもなぜswept around, そのまわりをまわるかといえば、斜面を通りたくないからだ。だから丘のふもとで、そのまわりを巡るのだ。だから、村上春樹の「斜面を軽快にカーブを切り」というのは必ずしも正しい状況認識ではない。

次は何だ。

I spotted the bar over in the corner by some very large french windows. It was one of those things you push around.

このバーについて、これまでの訳は清水訳以来「移動式の」と訳されてきた。 “push around”は「(人を)振り回す、こき使う」という意味だが、どうして「移動式の(村上・田口)」「手押し車式の(山形)」という訳になるのだろう。

どうしてかというとですね、この文では、そのpush around されるのは人じゃなくて、thingsだからなんですよ。push around someone なら、その人をこきつかう、小突き回して言うことを聞かせるになる。でもpush around somethingなら、何かを押して回る、ということだ。移動式のバーだった、というだけの話。写真を参照。push around というのに一つしか意味がないわけではないのだ。

車輪のついた移動式バー。黒くて屋根がついており、カウンターと、その上に棚がついている。
手押しの移動式バー

その他は細かい話だな。好事家がいろいろ翻訳を比べてくれるのはよいことだけれど、まちがっていると言われるとディフェンドせざるを得ないので。がんばってください。

意識・知性・良心? Conscousnessの混乱

悲しげなヒューマノイド型ロボットが赤いLED目を光らせているAI画像

いま訳している本で、機械は意識を持てるか、みたいな話をしていて、ヴォクト・カンプ試験がどうだ、チューリングテストがどうしたこうした中国人の部屋が云々、というこの手の話にちょっとでも興味を持った人なら百回は読んだ話が延々蒸し返されていてあれだ。

でも、そこで「意識 (consciousness)」と呼ばれているものに、ぼくはかなり違和感がある。そこで言っているのは、「知性」みたいなものの話であって、「意識」の話じゃないのだ。これはいろんなSFとかでもよく見かける混同。

たとえば犬や猫を飼っている人なら、こういうケダモノどもも多少なりとも意識を持っているだろう、というのはほぼ自明だと思う。もちろん、イルカとかチンパンジーとか、もっと高い知能がありそうな生物もいて、それが意識を持っているのもほぼ確実だ。犬や猫だって、知能は低くても意識はある。

訳してる本は、機械が意識を持ったら人権はあるのか、と問うているんだけれど、よほどイカレた動物権利論者でもない限り、犬や猫に人権があるとは言わないわな。その意味でこの本の「意識」ってのは何か別のものだ。

もっと下って、ウシやネズミにも意識はありそうだ。ゴキブリも蜂も、イヌに比べれば原始的なものかもしれないけれど、意識はありそうだ。サボテンや木や草は……どうだろうなあ。ミミズやゾウリムシになると、なんか意識と言えるほどのものではないようにも思うが、それでも何かしらのアレはありそうだ。

意識にも諸説あるんだけれど、そのときの「意識」って何、というのは、ぼくは人によってここらへんのレベル感がやたらにちがっているので、議論がかみ合わないことがままあると思う。ペンローズは、意識は微小管だっけ、その中の量子作用で起こるとか、わけのわかんないことを言うけど、その「意識」って何? ゴキブリの意識もそうなの? もっと高い知性の話をしているの?

あるいは、意識というのはその生命体が自分自身のモデルを内部に抱くようになることで生まれる、というだれだかの説がある。人間はそうだ。サルくらいはそうかもしれない。でもイヌは? ミドリムシは? それは意識なの、知性なの? ぼくはこういう説は、その両者を無意識にごっちゃにしていると思うのだ。

その意味でぼくが意識についての議論でいちばん納得がいくのは、谷淳の説。

この人はロボットに意識らしきものを発生させるというおもしろい研究をしているんだけれど、そもそもなんで意識なんてものがいるのか、と問う。デネットとかは、刺激を受けて有害なものを回避する、有益なものを得ようとする、という刺激→反応を複雑にしたものが意識だ、と言うようなことを言う。でもコンピュータでわかるように、それだけなら意識なんかいらない。論理演算するのに意識は必要ない。

逆に、8時に目覚ましのベルを鳴らす、というような方針→反応のプロセスだけでも、意識なんかいらない。論理回路を組めばいいだけ。

意識というのが必要なのは、脳からのトップダウンの命令と、感覚器からのボトムアップの刺激反応とが矛盾する場合だ。その両方がぶつかることで、その判断の回路に決定論的カオスが生じる。それが意識なんだ、と谷は主張する。

これがおもしろいのは、自由意思問題からうまく逃げられること。この発想だと、同じ刺激と同じトップダウン指示を与えられると、結果は常に同じだ。意識はあっても、好き勝手に結果は決められない。決定論的カオスなので、結果は決まっている。

ただし、どう決まっているかは、やってみるまでわからない。自分がどう動くかはだれにもわからないのだ。自由意思というのもしばしば、いろんな意味が交じり合っている。あらゆる可能性がある、というのが自由意思だと思っている人もいる。でも、それはあらゆる行動がランダム、という意味ではない、とデネットやフランクファートは述べている。自由意思はしばしば、だれになんと言われようと信念を貫く――つまり予想通りで絶対に変わらない――をもたらすこともある。つまりそうした自由意思理解自体が怪しいけれど、そうでなくても可能性は一つしかなかった。その意味の自由意思はない。でも、どうなるかわからない、という意味で自由意思が使われることもある。そして、カオスなので確かにどうなるかはわからない。そうとらえるなら自由意思はあるように見えるとも言える。

ぼくは、これは結構納得できる。人生で、同じ刺激を受けると同じ反応を自分はするんだな、と思い当たるときがときどきあるのだ。手を抜かない、という例えのときについ「仮面ライダーは一介の戦闘員を倒すにも全力を尽くす!」という昔仮面ライダーカードで読んだたとえを使ってしまうとか。人生で二回、高松の大アーケード街を、飯屋を探して歩いていたときに、同じフランス料理屋に入って同じ料理を頼んでしまったとか。どうも自分は、自由になんか意思決定しておらず、かなり決まった反応を示しているだけかも、と思うのだ。

そしてこの発想だと、「意識」と知性というのはある程度は切り分けられる。ゴキブリをたたきつぶそうとして追いかけると、ゴキブリがときどき明らかに迷うのが見える。頭の命令と、感覚器からの指示が対立して混乱しているのだ。そこには意識はある。でもそれが、選挙権をくれてやるべき意識かというと、それはまた別次元の話だ。

が、それはさておき、「意識」というのはこのようにはっきりしない。英語ではさらに、このConsciousnessは良心という意味もあるので、これまたこの単語に無用なニュアンスを加えて、話がさらにやっかいになっているという……

するとね、コンピュータは意識を持てるか、というのはシンギュラリティが実現するか、というのとはちがう話になるし、するとこの訳書での議論というのはかなり混乱しているんじゃないか。おもしろい議論もあるんだけどね。

チャンドラー『長いお別れ』英米版の差

以前訳したチャンドラー『長いお別れ』は、いろいろご指摘も受けてかなりミスも直ったのはうれしい限り。

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で、それにからんで、次の本を流し読みしていて、ちょっとおもしろいことに気がついた。

この本で、村上春樹訳での脱落箇所の指摘がある。ところが、ぼくが自分の手元の原文電子版を見ても、該当する文章がない。以下のp.69の注参照。

レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』山形浩生訳

また、上の本でも指摘されていることだが、村上春樹は訳者あとがきで、「bars で首をくくる」という部分について、それはあまりにも変だと述べて、悩みに悩んで barns=納屋にしたというとても長い説明をしている。確かに手元の原書電子版では bar だ。ところがイギリス版では、くどくど悩むまでもなく barns になっているのだという。山形訳ではp.229参照*1

その村上の解説でも、この本は誤植その他が多くてチャンドラーが怒ったということが述べられている。上の bars/barns はそうだろう。文章の脱落もそういうミスではないかと思っていた。

ところが上の本でさらに、女の子がリーバイスのジーンズを履いているという村上の訳文の原文が trousers だと書かれ、勝手にリーバイスにした村上は勇み足では、と述べられている。でもこれもぼくの手元の電子版では levis になっている。pdf版ではp.153.

trousers を誤植で levis にするというのはあり得ない。これはアメリカ版では levis になっていて、イギリスではみんなリーバイス知らないよね、ということで trousers にしたんだろう(付記:どうもイギリス版のほうが先にあったらしいことから見て、これはアメリカ版で具体的イメージを出しやすいように変えた、という順番かな)。特にこれはリーバイスというブランドを述べているのではなく、小文字になっていることからもわかるとおり、ジーンズ一般を指しているわけだ。

すると、これは英米版で意図的に差があるということになる。上の bars/barns はたぶんただの誤植だけれど、上の文章が一つ抜けているのは、そういう意図的な削除 (または加筆) なのかよくわからないところ。ちがう箇所がこれだけなのかはよくわからない。そんなことこそ、暇な研究者がチマチマ調べて一覧表作ってほしいところなんだが、そういうきちんとしたインフラ整備の論文をだれか書いていないものだろうか。っつーか、書けよ(怠慢な学者なんかがやる/できるわけないので、自分でやりました。付記参照)。かつてケインズ『平和の経済的帰結』をやったときには、英米版で通貨をポンド→ドルに変換して、固定レートの時代だからほぼ影響はないんだがあまりに機械的なので「一、ニ万ポンド」が「二、四万ドル」になったりしてちょっと変だ、というのは指摘したことがある。でも『長いお別れ』の改訂はもう少し細かそう。

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清水俊二と田口俊樹はどうもイギリス版をもとにしている。村上春樹は、アメリカ版を元にしている。ただ清水は、アメリカ版だけにあるはずの部分も入っているように思える (彼はいろいろ省略するので判断がむずかしい) ので、ひょっとすると英米それぞれ複数のバージョンがあるのかも知れない。ベースにしたテキストは明記しておいたほうがいいねー。あとちょっと英米版取り寄せて、気になるところは比べないと(比べた。付記参照)。オンライン版、kindle版でいろいろ出回っているものは何がベースかもよくわからないし、雑にオンラインのテキストをそのまま流し込んでいるだけのやつも多いようなので。めんどー

引き続き、お気付きの点があればご指摘いただけると幸甚。ダウンロードがめんどくさければ、以下のadobeサイトでコメントいただくことも可能。

チャンドラー『長いお別れ』山形浩生訳 adobeサイト版

付記 (2026/03/08)

両方のPBをスキャンしてOCRにかけ、結果をdiffにかけたところ、英米綴りの差以外に10ヶ所くらい大きめの差があった。

特に大きめなのが、20章に出てくるアイリーンとマーロウのやり取り。マーロウが彼女のキスを奪う少し前。

'May I have just one puff?'

'Sure. I thought you didn't smoke.'

'I don't often.' She came close to me and I handed her the cigarette. She drew on it and coughed. She handed it back laughing. 'Strictly an amateur, as you see.'

この赤字の部分はイギリス版にしかない。が、これは編集ミスとかではない。ここで'I don't often.' で、たまにはタバコを吸うというのをアイリーンに言わせてしまうと、25章で彼女がタバコをふかしているのを見たときにマーロウが驚く理由がなくなってしまう。このため、ストーリーの整合性のためには、この赤い部分はないほうがいい。だからこれをイギリス版で加筆したとは考えにくい。すると、イギリス版が先にあって、そこからアメリカ版にするとき削除したということだろうか? となると上のp.69 一行抜けも、編集上の深い考えあってのことなのかもしれない。

邦訳の中では、田口俊樹訳(創元推理文庫)はイギリス版をもとにしており、この部分も含まれている。

一覧表を作った。理由が推定できるものは推定を書いたが、根拠はなく単なる憶測。

Raymond Chandler "The Long Goodbye" 英米版原書の主要な相違点
章/翻訳pdfページ アメリカ版 イギリス版 備考
3章/p.20 What I don't get is why a guy with your privileges would want to drink with a private eye. What I don't get is why a guy with your privileges would want to drink with a down-at-heel private eye.
6章/p.40 Because if they had made any kind of job of it they would have found Terry Lennox's car keys An expert search would have turned up the car keys. turn upの探して見つけるという意味での用法が、米語で不自然に思われたか?
7章/p.42 Gregorius looked at me finally. Gregorius looked at me sadly. グレゴリウスは強面なので「悲しげ」は変だと判断されたか? Sadlyは同じ場面のグリーンに使用済みで、英版で混同されていた可能性もある
11章/p.68 The best of everything, the best food, the best drinks, the best hotel suites. The best of everything, the best food, the best drinks, the best clothes, the best hotel suites.
11章/p.69 I got connexions in Mexico that could have buried him for ever. buryが埋葬されるという意味に誤解されるのを懸念したかな?
14章/p.92 tall young man tall man ヴェリンジャー自身ではなくアールのほうだと明確にしたか?
19章/p.122 tall young man tall man 2ヶ所。一貫しているので誤植ではない
20章/p.134 "May I have just one puff?'
She came close to me (…)"
"May I have just one puff?'
'Sure. I thought you didn't smoke.'
'I don't often.' She came close to me (…)"
25章でマーロウがアイリーンの喫煙に驚く場面と矛盾するので、ないほうが論理的
23章/p.152 She had levis on She had trousers on アメリカで具体的イメージを描きやすいものにしたか?
28章/p.182 roses in a tall vase. roses in a tall thin vase.
28章/p.184 french window french door
29章/p.189 She called out something that sounded like a name but it wasn't mine. She called out something that sounded like a name but it wasn't my name.
32章/p.206 Sixth - you or someone (…) Sixth - I think that's the correct number - you or someone (…) 畳みかけるような口調が、こんなのが入るとダレると思われたのか?
36章/p.228 They have hanged themselves in bars They have hanged themselves in barns 村上春樹が訳者解説で悩んでいた部分
43章/p.281 "There was a sleek glitter in his eyes.
"Million de pardones"
"There was a sleek glitter in his dark eyes.
'Milon de perdones'
スペイン語の部分は英米ともにまちがい. Un million de perdones
45章/p.299 is just a question of method. See you around- I hope.' is just a question of method. And both methods stink in the nostrils of civilization. See you around- I hope.' なくても意味はわかるので、くどいと思われたのか?
アメリカ版:Balantine books 1971年版 (13刷1984)
イギリス版: Penguin版 (1959/2010)

cheque/check, color/colour といった英語/米語の綴りの差は考慮していない。

こうして見ると、まず明らかなのはイギリス版がベースで、それを見直してアメリカ版になっているということ。最初はbars/barns などの誤植から「雑な編集してるんだなー」と思ったけれど、意外にそうでもない。多くの改訂は、それなりに理由がうかがえるものとなっている。いまは、削られたものは復元という方針にしているけれど、アメリカ版で統一するほうがいいのかもしれない。

*1:村上春樹は、クノップフ社のチャンドラー本を担当した編集者マーティン・アッシャーに問い合わせて、誤植は絶対あり得ないと言われたと書いている( p.621)。イギリス版では barn になっていることを考えると、このアッシャーなる人物の見識はあまり高くはないと思わざるを得ない。その前のページでの「フリスコ」談義もまったく理屈が通っておらず、信用できない。それを真に受ける村上春樹もどうよ。

スタニスワフ・レム『SFと未来学』第9章「形而上学と信仰」:中身薄い章。

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第9章「SFの形而上学と信仰の未来学」。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

あらすじ

これまでの章と同じく、何か体系だった考察が行われているわけではなく、いろいろ読んで思いつきを並べるだけ、という感じ。宗教や形而上学を扱ったSFとして唯一見るに値するのはウォルター・ミラーJrの『黙示録3174年』のみ。他は浅はかで宗教をくだらない思いつきのネタにしているだけ。

じゃあ、ほかに語るべき作品がないので、形而上学や宗教一般についての話をしようか。科学が発達するとこれまでの形而上学で固定項だった人間ってのがゆらぎ、試験官ベビーとかピルとか人工知能とか出てくると困るよね。テイヤール・ド・シャルダンとか信仰と科学を融合させようとしたけど、なまくらだった。信仰は結局「不合理ゆえに我信ず」におちついて、神秘主義に走るしかないので、科学と融合させようとかいう無駄な試みはやめたほうがいいね。

ウォルター・ミラーも、核戦争後にキリスト教教会だけそのまま残ると思ったのは浅はか。ステープルドンは、超越者を求める心の働きは人間にあるけれど、それが具体的にどうあらわれるかは環境次第と見切ったのはえらい。

その他特にアメリカのSF作家は、知的な勇気もないし頭悪くてまともなもの何一つ作れていない。ダメねー。ちなみに、形而上学とか神がかった話が出てきたとき、本気で言ってるのか小説の奇想として言ってるのかは判定しづらいよね。あと、おいらの『ソラリス』のソラリスの海は神じゃないからな! あれはむしろそういう超越的存在を否定する小説なんだぜ! そこんとこよろしく!

これだけ。

感想

『黙示録3174年』はなかなかいい、という以外、何も見るべきことを言っていないように思うんですが。いろいろ可能性があるのに、いまのSFはそうしたテーマを取り上げていないという嘆きはわかった。でもそこで「あいつら、バカで意気地なしだから口をつぐんでるんだぜwwwww」というのは、必要あるの? 全般に中身薄いです。

基本、思いついたことの書きなぐりなんだよね。もっと構成考えれば説得力もあるし参考にもなるのに。

  • 宗教・形而上学は科学の発展でいろいろ課題に直面するぞ。だってその前提となる人間が変わるしAIも出てくるもんな!

  • つまり宗教の未来学的な検討は大きなブルーオーシャン! SFの独壇場だぜ!

  • でも従来のSFはそれをきちんと考えてない。ギャグやつまらないものばかり。がんばれ!

  • 唯一、ウォルター・ミラーJrはなかなかしっかり宗教のあり方を詰めて考えていてすごい。

  • ステープルドンは、人間の宗教心のあり方についてミラーより鋭かった。

  • あと、テイヤール・ド・シャルダンの思想みたいなのはSF寸前。でもあの人、マジで言ってたからね。でもSFとマジなテツガクとの差は紙一重ではある。

  • たとえばこんなテーマが有望なんじゃないの?

という具合で前向きに、体系だった宗教SF概観ができるんじゃないかなあ。

次回は!

次回は、エロスとセックス。うほっ、と言いたいところだが、涼森れむではないレムが、そんな艶っぽい話ができるわけないので、萎えそうです。まあお手並み拝見。

スタニスワフ・レム『SFと未来学』8章「宇宙とSF」:散漫だなあ

はじめに

はい続き。スタニスワフ・レム『SFと未来学』第8章「宇宙とSF」。

スタニスワフ・レム『SFと未来学 II』

あらすじ

これまでの章と同じく、何か体系だった考察が行われているわけではなく、いろいろ読んで思いつきを並べるだけ、という感じ。

8.1 はじめに

宇宙は、これまで文学でまともに扱われることがなかった。そもそも人類史において、宇宙というのが具体的な場所だ、という認識が出てきたのもごく最近だし、そこに人類が、農機具のような道具の延長にある乗り物で行ける、という発想自体もきわめて最近のものにすぎない。そして実証的な科学が出てきてその中で宇宙を捉えるようになったのも、ごく最近のことだ。

文学というのは人間的なものを扱うのがこれまでの常で、宇宙とか星とかいう、非人間的、非人格的なものは扱えない。だからそれを全部科学に背負いこませた。そして、宇宙を扱うSFは、文学の扱う話を扱っていないとして排除され、二流扱いされるようになってきた。

それがスプートニク打ち上げで、急に先見の明があったとしてもてはやされるようになったのがSF。ただしそのSFも、宇宙の持つ可能性をまともに考えていないし、ファンタジーは寓話の一種となって現実からの逃避になっている。

8.2 宇宙SF

宇宙SFでも、ブラッドベリはただの寓話的なおとぎ話の焼き直しだ。他の宇宙小説は、科学っぽいジャーゴンを多用してそれっぽい雰囲気を作るが既存のお話の使い回しか、あるいはA・C・クラーク作品のような単なる頭の体操パズルのようなもの。別に舞台が宇宙である必然性はまったくないし、ハインライン『人形つかい』のように、設定に説得力がないものも多い。

8.3 宇宙論ファンタジー

ステープルドン『スターメイカー』はむちゃくちゃだし、説明調でほぼ小説とは呼べない。失敗作なのはまちがいないが、そこに詰め込まれたアイデアはすごい。唯物論的な科学に対し、汎心論/汎神論みたいなところにまでぶっとんでいる。全能の神がなぜ不完全な世界を作るかという点での矛盾はある。そうした内部矛盾がこうした作品の欠点。でもオレ様は「かくて世界は破滅を免れた」で内的矛盾のない形でそういうアイデアを小説化してるのよねー。

8.4 宇宙SFと物語の構造

多くのSFはできあいのパターンを取ってそこにSFっぽい意匠を加えるだけ。ファンタジーやおとぎ話はそれに乗りやすい。吸血鬼を、どうしても血がいる病気とか、インチキな理由で人間の血からタンパク質をとる宇宙人とか言い換えればいいだけ。この意味で、SFとファンタジーは境界線が引けるものではない。あ、でも第2章とかでやった分類は、あくまで存在論的な話だからオッケーね。

その拝借されたお話の構造がSFの内部でどこまで改変されるかで、そのSFの善し悪しも決まる。宇宙小説は、かつてある種の職能を持つ職業人を扱った小説の生き残りでもある。船員が宇宙船乗りとなったり。現代小説は、人間の内面にこだわるので、職業を軽視し、職業が人を規定するとは考えない。SFは、そういう空白を補うものでもある。ベスター『虎よ、虎よ!』は『モンテ・クリスト伯』の焼き直しだが、絢爛豪華だし、独自の工夫もある。二流通俗小説ではあるが、その中では一流だ。

こう、ダメなものにもこうやってきちんと価値を見つけ出そうとするオレって偉くね?

感想

この章は、おもしろい指摘はいくつかある。冒頭の、宇宙が舞台となること自体が人間の歴史において目新しいことで、内面ばかりを重視したがる従来の人文学や文学はそれを自分たちの扱う範囲外としてしまい、SFはそれを補うものだとか、現代小説は職能とか職業人をきちんと扱わないという指摘とか。

しかし、全体として何か体系立ったことを言っているわけではない。非情に散漫な思いつきでしかない。途中で、ジャンルSFがよくやりたがる宇宙SFの分類のような試みを馬鹿にして見せるところがあるが、うーんそれで? 『虎よ、虎よ!』が絢爛豪華なワイドスクリーンバロックで、既存の下敷き話の焼き直しだけどおもしろいよ、というのは事実なんだが、なぜそのために十ページにわたり『虎よ、虎よ!』を引用し、あらすじ解説をしなければならなかったの? 必要だったと言うんだが、さっぱりわからない。

結局言っていることは

  • SFは人文学や文学が排除してきた、宇宙というものを描いているのでそれなりにえらい。

  • ブラッドベリは、うまく書いているけれどあまり中身はない。その他SFは自閉しているし、百万年たっても人間はいまと同じ価値観だったりしてステープルドンの足下にも及ばない。

  • そのステープルドンはめちゃくちゃだがすごい。でも神の完全性と不完全な世界という問題を抱えている。

  • SFは既存の話の焼き直しが多いが、それを徹底するとベスター『虎よ、虎よ!』みたいな、二流通俗小説ながらもその中で第一級のものができる。

ほぼこれだけなのだ。

そこでの主張に賛成しないわけじゃないけど、『宇宙とSF』という章題の下で、数十ページにわたりページをかけて、言っていることがこれだけというのは、いささかがっくりすると言わざるを得ない。なんかもうちょっと、構築的な議論とか、新しい視点とか出してもらえないのだろうか。

ステープルドンも、ほめたと思ったら、冒頭1/3だけで、あとは彼の汎神論の話が整合性がないという脱線を得意げに延々と続ける。そこの主旨は、神の全能性とこの世の不完全性という、ラヴジョイの話でやったようなことで、それをどうやら自分で思いついて書いていたりするのは大したものかもしれないが、ここでの話にはあまり関係ないうえ、自分の思いつきを語るために結局ステープルドン下げに終始しているのはどうよ。

cruel.hatenablog.com

結局のところ、レムとしては読者がこれを読んで何を理解してくれる/理解してほしいと思っていたのか、ぼくにはよくわからない。いまのアメリカSFは、他の可能性もあるのにもっとガンバレ、というくらいの話しかまとまった主張は引き出せないと思うんだが。

もうちょっと構成をきちんと考えて、きっちりした論旨を作れると思うんだよね。

  • SFは人文学や文学が排除してきた、宇宙というものを描いているのでそれなりにえらい。

  • また宇宙飛行士を筆頭に、現代文学で無視されている職業/職能的な人間描写の可能性も追求している。そういう作品としてはこんなのがある。決してうまくないが、新しい可能性追求は評価すべき。

  • ただし、多くの作品は安易に既存の話の置き換えに終わっている。おとぎ話の「おばけ」や「吸血鬼」に宇宙からきたナントカと称して合理的な説明を与えたり。それがSFの持つ可能性を生かしきれていないのは残念。

  • そうしたやり方でも、徹底してSFという枠組み内で変形を加えることで非常におもしろいものも作れる。ベスター『虎よ、虎よ!』はそれを見事にやっている!

  • さらに宇宙と人類の関わりについて、従来の文学じゃ扱えない壮大な取り組みをすることもできる。ステープルドンはめちゃくちゃで、汎神論に陥っているけれど、でも従来の小説にはまったくできないことをやっているのはすごい。それに刺激を受けたような意識進化の話とか、一部の作家が萌芽的に触れてはいるし、もっと頑張れ。ということで、形而上学の話を次の章でやろうぜ!

といった具合にすれば、宇宙SFに何が期待できて、どこがレム的に不満だと思っているのかが、もっと明確に出ると思うんだが。そしてこれを整理すれば、いまの1/4のページでおさまると思うよ。

レムの(本書の) 違和感について

なんか、だんだんこの本についての違和感がわかってきたような気がする。

あらゆる評論・論説は、「他人の気がついていないところに自分は気がついた」「他人の思いこみを自分は裏付けた/否定した」がないと成立しない。そこには絶対に「どうだっ!」という自負はある。それがなきゃ、手間掛けて研究だの評論だの論文だの書かないだろう。つーか、書かないでくれ。「いろいろ見てみたけど、なんかおもしろい結果出ませんでした、いろいろですね、ハッハッハ、やったことに意義がある」とかいうのは本当にうんざりするので。ひがみっぽい人はそれを見て「上から目線」だの「押しつけ」だの被害者意識に浸りたがる。そういうバカは相手にする必要はない。その自負が強すぎてカチンとくることはある。でもそれは、そいつが見出した論点とのバランス次第ではある。恐れ入りました、と言わざるを得ないこともあれば、くだらんことを何威張ってやがる、と思うこともある。

でもレムは、頭良いのはわかるんだが、あらゆるところでそれを前面に出したくてたまらない。だからステープルドンの宇宙SFとしての特質を論じるはずのところで、それをまったくそっちのけにして、ステープルドンの汎神論についてあれこれケチをつける。形而上学の話は次の章でやると述べてるんだから、ここでその話をしなくてもいいじゃん。でも彼は、ステープルドンすごい (でもオレのほうが頭良いぜ) と言いたいのだ。そしてその脱線が終わったら、結局ステープルドンのすごさについてはろくに語らずに終わってしまう。

ベスターだってそうだ。『虎よ、虎よ!』がすげえと思った。わかるよ、それは。十ページ以上も冒頭部分を丸写ししたいくらい好きだったんだね。うんうん、むちゃくちゃだけどおもろいよねー。ナカーマ。でもさ、この章は宇宙SFの話ではありませんか。そうしたベスターのワイドスクリーン・バロックとしての価値が実現されるにあたって、宇宙というモチーフがどう有効に作用しているか、というのを論じないといけないんじゃありませんか? ところがそれがほとんどない。『モンテ・クリスト伯』を、宇宙モチーフ付け加えて換骨奪胎しました——うん、それはわかる。でもその換骨奪胎のために宇宙は不可欠だった、という話が少しでもないと、宇宙SFの章でそれを論じる意味があるの? ミクロの決死圏で人体内で換骨奪胎もできるんじゃない?

ところがレムは、そこで行われている換骨奪胎を細かく論じるんだけど、その宇宙との関わりは何も語らない。そして挙げ句の果てに、この章の最後では

しかし批評家の仕事は、価値がほとんどないか、アポロ的、ディオニュソス的な価値の貧しい親戚となる価値しかない場所でも、価値を探すことなのだ。

アポロ的な価値は、学問的、芸術的な価値ってことで、ディオニュソス的な価値ってのはつまり享楽的な価値ということ。つまり、『虎よ、虎よ!』は芸術的にも無価値で娯楽としても大したことないと言っているに等しい。だからベスターについての賞賛は、「こういうクズの中にもオレ様は価値を見出してやったぜ、批評家はつらいねー」という話にですよ、という自慢だ。

そんな無理して価値を探し出していただく必要もないんじゃないの? 積極的におもしろいぜと認めて、そこから出発できませんか? あらゆるところに「でもオレのほうが頭良いしすごいんだけどね」「クズだけどサルベージしてやったからありがたく思え」と言わないといけませんか? そこらへんが、この本のうんざり感の大きな源泉の一つだとは思う。

一読者、視聴者として「ぐわーっ、ろくでもないもの読まされちゃったぜ、なんだこれわー!」という怒りの評論は当然あっていいよ。ダメなところを冷静に指摘するのは当然ありだ。でもそれが自分の小才を誇示する手段になってしまうと、見られたものじゃない。

オールディス他『一兆年の宴』でのレム評はこうだ:

スタニスワフ・レムは、この作家の真価を歪めかねない一種の強烈な仲間褒めに浴する一方で、自作に対する本人の声高な擁護が、おおぜいに不快感を与えた。(中略) レムの作品はめったに退屈におちいらず、しばしば滑稽であり、賞賛すべき多くの要素がある。しかし、公平な視点からすれば、彼は(ダルコ・スーヴィンがくりかえし主張しているような)「今世紀で最も重要な作家のひとり」ではない。レムの反SF 的な姿勢に賛成するSF 界外部の知識人たちが、いかに彼を礼賛しようとも。(pp.204-5)

ホントなら、もっとストレートにほめられてしかるべき作家なのに、こんな言われ方をされちゃうのも、そういうことではある。ちなみに、注には多少の同情をこめつつこうある:

七〇年代中期には、レムに関する論争が荒れ狂った。アーシュラ・ル・グィンは、〈ヴェクター〉73(一九七六年三月号)でレムの二冊の著書を書評するにあたって、こう述べている——「最近、アメリカSF 界でレムの名が話題にのぽるときには、苦々しい口ぶりと、ときには憎しみをこめた冷笑がつきまとう。その理由のごく一部は純粋な羨望にあり、また一部は無理からぬ反感にある。なぜなら、レムは不器用で論争好きな批評家であるからだ。そして、あとの大部分はフランツ・ロッテンシュタイナー(ウィーンに住むレムの代理人)が、熱心にレムを賞賛するあまり、この巨匠に比べればほかのすべてのSF 作家は無能なクズだ、としばしば主張したことにある——この主張は事実でもないし、好感も持てない。しかし、羨望や、反感や、ロッテンシュタイナー氏を差し引いても、依然としてレムを(だれも本人に会っていないのに)酷評しようとする謎めいた根強い偏見がある。彼の著書は無視されている。彼は汚名を着せられている」(p.218)

が、本書を見ると、これはロッテンシュタイナーのせいではなく、レム自身の身から出た錆びだというのははっきりわかる。

つづく

これで、SFと未来学下巻の三分の一ほど。次の章は、形而上学とSF。SFと宗教とか神様とか。やっぱり、整理されない思いつきの書き殴りが続くみたい。ウォルター・ミラーJr『黙示録31xx年』が引き合いに出されるみたいだけど、すごく啓発的な視点や総合的な議論が展開される希望はいまやほぼない。

Khruangbin ”Maria Tambien"

全然関係なくYouTubeのおすすめで出てきたが、なんか気に入ってしまった。


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仕事で行ったアジアの地方都市で、夜中にふとビールでも飲もうかと外に出て店に入ると、なんかボロボロのでっかい体育館みたいなところで、もう客が泥酔者五組くらいしかいなくて、バンドがその妙にでかいステージで弾いていて、だれも聞いていなくて、曲の終わりごとになんかパラパラと気のない拍手が起きるくらい。でもでもそれが妙に上手でなんか聞き入ってしまう。でも五曲目くらいで演奏終わって、もう撤収が始まり欠けて、だからステージにいってちょっと多めのチップおいてこっちも帰ろうとしたら、なんか喜んでくれてもう一曲やってくれて、それでこちらもちょっと幸せな気分で帰るけど、泥酔者どもはまだ、何をするわけでもなく残ってる、みたいな感じの雰囲気。

付記:

あれがおすすめで出てきたのは、この曲のオフィシャルPVがイランのイスラム革命批判になってるから、なのかな?


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付記:

その後あちこち見ていたら、この人たち、本当に東南アジアのファンクっぽいのが源流みたいなのね。そういう印象になるわけだ。

レイモンド・チャンドラー『プレイバック』(1958) 全訳

長ったらしくていつまでも終わらないレム『SFと未来学』にちょっと疲れてきて、お手軽なものを。

レイモンド・チャンドラー『プレイバック』(1958) pdf 2.1MB

2026年1月6日に全訳あがりました。お年玉がわりに。既訳と比べてどのくらい改善されているかは、また注を見ればわかるはず。

これは翻訳権がちゃんと切れているのでご安心を。これについては、訳者解説 (だいたいできてる) で説明しておいたので、興味ある向きはご参照を。なお、最初に書いたときはアメリカの著作権更新の仕組みと本書の献辞についての理解が不足していて、まちがった記述をしてしまったので2026年になってから更新した分では修正してある。

なお、もしコメントをいただける場合、以下のadobeのサイトにあるやつにオンラインでコメントしていただいてもオッケー。

レイモンド・チャンドラー『プレイバック』(1958) acrobatサイト、オンラインコメント可能

なお多くの変換ミスを指摘してもらい、1/24時点でバージョン1.06にあがっています。ついでにGrokにダサい表紙を作らせました。(が、意外といいできだなあ)




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