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勝浦城址

一般的に戦国時代は1467年の応仁の乱をもって開始とされるが、

関東では1416年に上杉禅秀の乱、1438年永享の乱、1440年結城合戦、1455年享徳の乱、1473年長尾景春の乱、1487年長享の乱、1506年永正の乱と一足早く戦乱の時代に突入した。

結果、下総には千葉氏、上総には武田氏(甲斐武田氏の支流)、安房には里見氏が割拠することになった。

1517年、古河公方足利政氏の次男、足利義明が上総の小弓城に入り、

武田氏…本拠地の名前を取って真里谷氏とも呼ばれる…がこれを支援した。

しかし、1538年、第一次国府台合戦で、足利義明は戦死、武田氏は没落する。

 

当時、勝浦は武田氏の勢力圏であったが、

里見氏の重臣、槍大膳こと正木時茂が1542年に勝浦城を、1544年に大多喜城を落とし、

大多喜城には自らが入り、勝浦城に弟の時忠を入れる。

正木時茂は甲陽軍鑑朝倉宗滴話記にも登場するほど当時全国的に名の知られた大将であった。

(まぁ甲斐の虎や越前のチートジジイほどではないのだが…)

 

ところが本家の大多喜(小田喜)正木氏は時茂の嫡男の二代目槍大膳正木信茂が1563年の第二次国府台合戦で討ち死に。

時茂の養子の憲時の代に、里見氏に背き滅亡してしまう。

一方で、勝浦正木氏は里見につき、家名を存続することができた。

 

勝浦城は現在八幡岬公園となっているが、

三方を切り立った崖と海に囲まれ、残る一方も切り通しやトンネルが通された天然の要害である。

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pixel7a 5.43mm SS1/922.51 F1.89 ISO45

 

さりげなくイソギクの花が咲いている。

左手に駐車場、右手に公園…さらに階段を上り八幡岬、この階段を昇れば八幡神社だが

勝浦城址の碑がここにあるということは

この上が本丸だったのだろうか…

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テレビは全く見ないので知らなかったが豊臣兄弟はじまってるのか…

小学生のころに堺屋太一の「豊臣秀長-ある補佐役の生涯」を読んだけど、原作はこれではないんですよね?

この手の話は同時期に読んだ戸部新十郎の「蜂須賀小六」の方が印象に残っているが。

 

…考えてみると「南総里見八犬伝」は読んではいるのだが、あれは完全版とはいいがたかった。

高木卓訳のポプラ社版「古典文学全集23里見八犬伝」を確実に読んでいて、

そのあともう少し詳しいやつを読んだんだったか…確か里見義実が結城合戦安房に落ち延びる所からはじまる。

ポプラ社の古典文学全集というと、「平家物語」も「太平記」も「信長記」も「太閤記」も最初は全部これで読んだ記憶がある。

そのあと小学館の「ジュニア日本の歴史」を暗記するほど読み、

さらに集英社版の「日本の歴史」をこれも暗記するほど読んだ。(漫画じゃないよ)

永原慶二氏や児玉幸多氏とは長い付き合いになった。

丸木夫妻の「原爆の図」は小学生にトラウマを植え付けるに十分だったw

 

さて、これだけ戦争をやっても当時の戦争はあくまで人間同士の殺しあいだった。

今の戦争はミサイルが飛んできて、地形すらも変わってしまう。

全力で避けるべきものなのだが、自分たちが被害にあうかもしれないなど想像もつかないのか、戦争をやりたがる人が日本にも一定数いるようで…

かつて田中角栄が危惧していた通りになった。

「戦争を知っているやつが世の中の中心である限り、日本は安全だ。戦争を知らないやつが出てきて日本の中核になったとき、怖いなあ」

 

平和を望むことを平和ボケと考えている方がいるようだが、

本当の平和ボケとは戦争の悲惨さを忘却し、平和は外交努力によって維持されていることを忘れてしまうことなのである。

 

 

 

 




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