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蘭亭

令和七年歳在乙巳暮秋之初會于日比谷公薗之蘭亭

令和七年、歳は乙巳に在り。暮秋の初め、日比谷公園の蘭亭に会す。

 

王羲之の蘭亭序をパクったものである。

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pixel7a 5.43mm SS1/1076.43 F1.89 ISO37

 

蘭亭序は永和九年の癸丑…西暦353年であり、

卑弥呼が魏に使いを送ってから100年後くらい、

倭の五王が使いを送る60年くらい前…日本の空白の4世紀の話である。

当時中国では、三国志の時代が終わったと思ったら、

八王の乱が起こり、北部は五胡十六国

南部(呉と蜀のあたり)は逃れた司馬一族が東晋を建国。

南北朝の時代であった。

王羲之東晋の建国に功があった琅邪王氏の出身で、

北方より移住した門閥貴族であった。

 

蘭亭序は唐の太宗が王羲之の書のコレクターで、

詐欺まがいの方法で入手して、死ぬとき一緒に墓に埋葬したので

オリジナルは残っていない。

いくつか複製があり、唐の時代の複製品が日本で展示されたこともある。

 

文章は行書で書かれていて現在も複製が書道のお手本に使われる。

この時代もぼちぼち楷書が使われていたが、大成するのは唐の時代の話である。

当時はまだ公文書は隷書、楷書は仏教関係で使われ始めたイメージがある。

もう少し時代は先だが北魏の像造紀は楷書であるし、

王羲之も夏侯玄の「樂毅論」を楷書で書いている。

これが日本に伝わり、

藤原光明子光明皇后が臨書したものが正倉院に保管されたりしている。

漢字は

甲骨文字→金文→篆書→隷書→草書→行書→楷書

と進化しており、草書とは楷書を崩したものではなく

草書や行書を整えたものが楷書である。

これは特に印刷術が発展すると、楷書の方が都合がよかった点がある。

一方、日本では草書とかな交じりの崩し字が印刷でも使用されていて、

江戸時代になっても書籍の印刷は1ページごとに版木をつくっていた。

しかし、明治、戦後と崩し字文化は廃れていった。

崩し字を写植することは難しいし、

パソコンで表現するのも厳しいと思われる。

 

この展示を見てなぜ蘭亭を連想したかと言うと、

この蘭亭で開催されたのが

別荘の新築祝いの曲水の宴だったからである。

戦乱の時代ではあったが束の間の平和があったらしい。

曲水の宴とは庭園に造った川にお酒を流し、

自分の前に流れてくる前に詩をつくり、

完成したら酒を飲むという趣向で、

日本でも平安時代に行われていた。

つまり当時から庭園には川が組み込まれていたのである。

 

現在日本庭園と言うと枯山水とか、鹿威しなどを連想するが、

これらは鎌倉時代に渡来した禅宗や、

利休が大成した詫び寂びの影響を受けたものであり、

歴史としてはわりと新しい。

まぁ…公家文化の庭園は、

瓦も葺いていない掘っ立て小屋ではなかったろうが…

背面の丸い窓に障子がはってあるところも

中華風な感じがする。

 

 




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