新川公園は
中央大橋から永代橋までの隅田川の西岸の堤防上の公園のことである。
中央区の区立で現在工事中…
江戸時代このあたりは網の目のように水路が設けられており、
新川はそのようにつくられた水路のひとつだが
東京大空襲のがれきで埋められてしまい、現在は石碑と地名に残るのみとなっている。
かつてこのあたりは靈巖島と呼ばれていたが、
それはこのあたりに靈巖寺と言うお寺があったからである。
靈巖寺は万暦元年に対岸の清澄庭園のあたりに移転している。
松平定信の墓があるというが行ったことないので知らん。
pixel7a 5.43mm SS1/8.48 F1.89 ISO322
右側に青く見えるのは永代橋の光である。
右の桜の後ろのあたりには
スカイツリーがあるのが拡大すればわずかに見える。
日本の電気は国家総動員法が施行されたときに
日本発送電と言う国営企業に統合されたが、
1955年11月14日、日米原子力研究協定がワシントンD.C.で調印され、
同年12月27日発効した。
これに基づき、アメリカは研究原子炉用に20%濃縮ウラン235を
6kg日本に賃貸することになるのだが、
使用済み核燃料はアメリカに返還し、
貸与燃料を目的どおり使用すること、使用記録を毎年報告することがとりきめられた。
1957年8月27日実験炉JRR-1が臨界に達し
日本の原子力は順調であるように思われた。
商用原子力発電を導入するために
1957年5月9電力会社は共同で原発を民営で運営する案がだされ、
一方7月に官僚が中心に
原発を国営で運営する方針が提示され、
原発は民営にすべきか、国営にすべきか…
かつて電力を国営化し戦争に突入した過去があるので
電力会社は抵抗し、
結果、1957年11月1日、80%を電力会社、20%を国が出資する
日本原子力発電株式会社が設立された。
乗り気ではなかった。
商用原発は実験炉と比べると桁違いに使用する核燃料が多く
安保闘争がはじまりつつあった日本は信用できなかったのである。
そこで、イギリスの黒鉛炉の導入を決め…
一説によると河野一郎がバーターで
イギリスに鮭缶を買ってもらうことを取り決めたという。
1960年1月16日から工事が開始されたが、
営業運転が開始されたのは実に1966年7月25日であった。
この原発は1998年3月31日営業運転終了したが
廃炉はまだ終わっていない。
一方で1967年8月21日に着工した美浜発電所は
1970年7月29日に臨界に達し、大阪万博に電気を供給した。
また福島第一原発は1967年9月29日着工、
1981年7月27日に臨界に達した。
当時の東京電力社長、木川田一隆は
「原子力はダメだ。絶対にいかん。
原爆の悲惨な洗礼を受けている日本人が、あんな悪魔のような代物を受け入れてはならない」
と言っていたという、
それにもかかわらず原発をつくることにしたのは
電気の再国営化の恐怖の為と言われている。
そして木川田の故郷である福島に原発を建てたのである。
参考文献
日本の原子力研究開発初期における確執の諸相. 主として原子動力炉導入をめぐって、 そして1960・70年代へ
