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消えた町名「守横町」──石岡の記憶をたどる

2025年12月25日、冬の澄んだ空気の中、石岡市を歩いていたときのこと。ふと目に留まったのは、表札に刻まれた「石岡市守横町」の文字だった。今では見かけることのないその町名に、思わず足を止めた。

かつての町名を今に伝える「守横町」の表札



さらに歩を進めると、ひっそりと佇む黒い石碑が目に入った。そこには、かつてこの地に存在した町名「守横町」の由来が刻まれていた。

守横町の由来を伝える旧町名案内碑

案内碑にはこう記されている:

江戸時代から昭和まで使われていた町名で、住居表示法施行により昭和五十二年四月一日国府一丁目から六丁目になる。
府中雑記に正保年中(一六四四~一六四七)の頃までは右馬上(うまかみ)といわれていたが、後に江戸時代後期の地図に守木横町とあり、その後守横町となったといわれる。

一方、石岡市の観光情報サイト「石岡のお祭りの魅力」では、守横町は正保年間に「馬之地上町(うまのちかみまち)」から改名されたと紹介されている。どちらの説も、かつてこの地が「馬の上手(かみて)」に位置していたことを示しており、「右馬上」も「馬之地上町」も、同じ地域を指す異なる表現だった可能性がある。

また、江戸時代後期の絵図には「守木ヨコ丁」と記されており、「守木横町」の略称が「守横町」となったと考えられている。町名の変遷には諸説あるが、いずれも江戸時代の早い時期に「守横町」という名が定着していったことは共通している。

江戸時代には「守横町稲荷」の初午祭りが盛大に行われ、町内には大旗が立ち、講仲間が集まってにぎやかな振る舞いがあったと伝えられている。明治時代には、鍛冶屋、米雑穀店、菓子屋、周旋屋などが軒を連ね、商都・石岡の活気を象徴する町のひとつであった。

また、町内には天台宗の古刹「常光院」や、地域の信仰を集めた「宇迦魂稲荷神社」もあり、暮らしと信仰が寄り添う場所でもあった。

しかし、昭和52年(1977年)4月1日、住居表示の変更により「守横町」という町名は廃止され、現在の「国府一丁目から六丁目」へと再編された。

今ではその名を知る人も少なくなったが、表札や案内碑といった小さな痕跡が、かつての町の記憶を静かに語り継いでいる。




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