明月院へ向かう途中、偶然、電力プレートを発見した。
周りに多くの観光客がいたので、撮りにくかったが、撮り逃すわけにはいかないので、人目をはばからず撮ることに専念した。
当然だが、このようなものを撮っていることに気を留める人は誰もいない。
発見日 2024年6月17日
発見場所 神奈川県鎌倉市山ノ内

「山内」は現存している町名だが、電力プレートが現存していること自体貴重なことなので、旧町名でなくても、発見したものは他の方が紹介していなければ、基本紹介していることにしている。
「山内」の歴史を調べてみると、Wikiでは、
古くは山内庄(現在の大船から横浜市栄区・戸塚区方面まで含む)の一部であり、この一帯を領したのが山内氏である。鎌倉時代には有力武家の屋敷や建長寺、円覚寺が造られて栄えた。室町時代には関東管領の上杉氏(山内上杉家)が居を構え、現在でも「管領屋敷」という地名(北鎌倉駅近く)が残る。明治時代に鎌倉郡小坂村(のち大船町)の一部となり、1948年鎌倉市に編入。
と書かれていた。
明月院から鎌倉駅に向かう途中の踏切「第三鎌倉道踏切」

ここに書かれている所在地「鎌倉市山ノ内東管領屋敷332」に反応しないはずはない。
以前通った時は気が付かなかったが・・・。
反対側は「鎌倉市山ノ内1432-7」となっており、字名は付いていなかった。

管領屋敷?
変わった字名だ。
澁澤龍彦が「古寺巡礼 東国3 建長寺」(淡交社)に寄せたエッセイ「建長寺 あれこれ」に、
現在、私の家の住所は正しくいうと、鎌倉市山ノ内字管領屋敷三一一番である。管領屋敷という名が示すごとく、このあたりはもと関東管領山ノ内上杉家の邸だったところで、初代の上杉民部大輔憲顕以来、山ノ内上杉家は代々ここに居宅していたという。明月院のすぐ近くで、アジサイの咲くころは観光客が押しかけてきて大いに閉口するが、さすがに鎌倉・室町の高級武士の住んでいたところらしく、普段はまことに閑静ないいところである。
と自宅の住所を書いている。
明月院の入口付近に「上杉管領屋敷 福源山明月院」の石碑が建っていた。

扇谷上杉管領屋敷跡碑
撮影日 2024年4月15日
撮影場所 神奈川県鎌倉市二丁目4付近

内大臣藤原高藤十三代ノ裔ニ重房アリ宗
尊親王ニ従ヒテ鎌倉ニ下リ食邑ヲ丹波國
上杉荘ニ賜リテ始メテ上杉氏ヲ稱セルガ
其ノ曾孫憲顕管領基氏ノ執事ト為リテヨ
リ一族勢力ヲ関東ニ占ム門葉數家重房五
世ノ孫顕定扇谷家ヲ創ム文明ノ交扇谷家
六代ノ主定正賢臣太田道灌ヲ用ヒテ家聲
ヲ揚クルヤ世ニ宗家山内ト共ニ両上杉又
ハ両管領ト稱ス此ノ地即テ其ノ邸址ナリ
大正十一年三月建 鎌倉町青年團
Copilotに現代語訳してもらった。
ものの数秒だった。
内大臣・藤原高藤の十三代の子孫に重房という人物がいた。彼は宗尊親王に従って鎌倉に下向し、丹波国の上杉荘という土地を与えられ、そこで初めて「上杉氏」を名乗った。
その曾孫である憲顕は、管領・足利基氏の執事となり、それ以降、上杉一族は関東で勢力を広げていった。重房から五代目の孫である顕定は扇谷上杉家を創設し、文明年間にはその六代目の当主・定正が、優れた家臣である太田道灌を登用して家の名声を高めた。
この頃には、宗家である山内上杉家と並び称され、「両上杉」あるいは「両管領」と呼ばれるようになった。この地は、まさにその邸宅の跡地である。