2024年(令和6年4月)にリニューアルオープンした品川歴史館

2025年8月5日、たぶん、初入館。
入口入ってすぐ左手に「東海道品川宿の石垣石」が展示されていた。


長徳寺門前の南品川二丁目14番地に位置し、平成27年11月末に解体撤去された石積護岸 (南D地点)の隅角部の石材です。撤去に際し所有者からその一部を譲り受けました。この石材は、いずれも千葉鋸山産の凝灰岩「房州石」であり、明治時代に積まれたものと考えられます。
江戸時代、徳川幕府の直轄領で海に面していた品川宿では、幕府が石垣を築いて街道を保護しました。南D地点の護岸には伊豆半島産安山岩と凝灰岩の「伊豆石」積が残されています。伊豆石の石垣は江戸城や品川御台場の石垣と同様であり、幕府の「御普請」でした。房州石は、街道筋の土留修復材として使用される一方、文政12年(1829)に幕府代官が護岸としての利用を想定していることから、やがて護岸の石材としての利用が拡大していったのでしょう。
江戸時代の海岸線、撤去部分との位置関係(平成27年11月)

「東海道分間延絵図」(郵政博物館所蔵)

隅角部の調査と成果

品川歴史館では、南D地点の隅角部の解体に際し、石垣裏(裏込め)の構造を調査しました。東海道品川宿の遺構としては、品川区初の調査事例です。
江戸時代後期の文献史料では、伊豆石積の品川宿護岸の裏込めに割栗石、 砂利、泥岩(三浦岩)を使用したと記されていますが、この調査では、厚さと幅が約20~22cm、長さ約75~80cm、重さ約80kgの規格材が大半を占める房州石積の護岸とその裏込めが対象でした。
調査の結果、裏込め材としての石材は皆無であり、代わりに土砂が隙間なく充填され、かつて裏込めとして使用されたであろう泥岩や江戸時代の陶磁器片、 貝殻が混入していました。後世に石垣の積み直しや裏込めの改良が行われたのかも知れません。調査ではこのほか、隅角部の石組みや道路面下に3段(約60cm)の石垣が残されていることが明らかになりました。
南D地点隅角部の裏込めを堀り上げた時の様子
年代設定 1840年代
縮尺 1/150
絵図や浮世絵、発掘調査の成果などから、東海道品川宿の北側出入口のあたりを復元しました。後ろの山はハッ山で、その前には東海道が通っています。海に面した宿場町・品川宿の景色をお楽しみください。
東海道品川宿の石垣石

18~19世紀
当館所蔵
海に面していた品川宿では、石垣を築いて波から町を守りました。赤い石は神奈川県の真鶴の海岸で採れたもの(新小松石)です。緑色の石は静岡県で採れたもの(青石)と考えられます。
遡ること2025年5月3日
以前も撮ったことがあるのだが、遅ればせながら、2023年(令和5年)3月29日に文化財に指定されたことを知ることとなり、再訪することにした。



雑草が結構生えていた。
2025年8月9日
歴史館で学んだので、すこし詳しく見てみようと思い、再び訪れる。

房州石積

伊豆石積

境目付近

少し行ったところに同じような石積みがあったが、こちらは史跡に指定されていないようだ。


これは、違うものなのか、素人目には分からなかった。
「東海道品川宿石積護岸」の説明板は、南品川二丁目児童遊園の目立たない所にあった。


所在 品川区南品川二丁目十四番十号
令和五年三月二十九日指定(史跡第二十五号)
本石積護岸は、江戸時代に品川宿をはしる東海道を波濤から護るために構築されたものであり、現存する石積は、地上露出部で全長十五・三m、高さ一・七~一・九mを測る。十九世紀前半以前に伊豆石で構築され、近代以降も房州石や大谷石を用いて修繕を繰り返しながら使用されてきたものと考えられる。
こうした石積護岸は、かつて高輪から大森にかけての東海道海岸線上に存
在したが、すでにその多くは開発によって消失しており、江戸時代に構築された石積が地上に露出しているのはこの地点のみである。江戸時代の土木技術を窺うことができ、海に面した宿場町・品川宿の特色を偲ばせる貴重な史跡である。
令和六年三月二十八日
品川区教育委員会設置



この花壇に使用されている石材は、品海公園北隣の民家の基礎として使われていたものです。
かつて東海道品川宿の街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねた石垣として組まれていました。
石材は千葉県鋸山産の凝灰岩 ( 房州石 ) であり、幕末から明治時代の加工と考えられます。
品川宿の護岸は、もともと伊豆半島産の安山岩 ( 伊豆岩 ) で構築されていましたが、江戸時代後期に房州石が加わるようになります。
房州石は産地も近く、柔らかく切り出しやすい石質のため、次第に伊豆石に取って代わっていきました。
海に接していた品川宿の歴史を伝える貴重な文化財です。
平成二十九年九月
刻印と思われるものが刻まれている。

読めない。


