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旧三町顕彰の碑と羽田三町復元模型

ネットで調べていたところ、天空橋駅付近に「旧三町顕彰の碑」があることを知る。旧町名の何らかの情報があれば見に行きたくなるのは旧町名マニアとしては当然のことである。(自分だけかもしれないが・・・)

2025年7月12日、品川駅から京急線に乗り換える。大きなスーツケースを持った外人さんがたくさん乗っていて、通路を通るのも大変だ。席が空いていたので、座ってしまったが、空港前の駅なので降りれるのか?
天空橋に着いた。スーツケースの隙間をすり抜け下車する。

目的のものはすぐ見つかった。

旧三町顕彰の碑

歴史を伝える碑であることを表し、3つの町の名前(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)が記されています。

戦争と、旧三町(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)の強制退去

江戸時代後期に新田開発され、明治以降、羽田穴守町一帯の発展とともに賑わいをみせていた旧三町でしたが、戦争により町の様子が変わっていきました。
戦時体制下の国策のもと、1931(昭和6)年に羽田に開港した東京飛行場が拡張されることとなり、羽田穴守町にあった運動場や浄化海水プールが廃止されました。羽田御台場の競馬場も廃止され、その跡地や羽田穴守町一帯には軍需工場や高射砲陣地が置かれました。
戦争が激化する中、1945(昭和20)年4月15・16日には羽田にも大規模な空襲があり、旧三町の大部分が焼けてしまったそうです。
同年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏することとなりました。東京飛行場は連合国軍によって接収され、拡張されることとなり、 同年9月21日、海老取川以東の住民に対し、48時間以内の退去命令が出されました。対象となった住民は、羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の 3,000人余と言われています。退去命令は、一片の家屋立退証明書が発行されたのみで、ほとんどの住民は口頭で知らされただけだったそうです。

強制退去により弁天橋を渡る羽田の人々
(安部公洋画(公財) 伊東獎學会 所蔵)

当時を知る方のお話
・戦時中、空襲に備えて建物の強制疎開が行われていた。1944(昭和19)年には、羽田鈴木町でも公園用地の名目で土地買収があり、その土地の持ち主だった伊東三右衛門さんは、そのお金を寄付して財団法人伊東獎學会を作り、今も教育振興や地域文化を伝える活動が受け継がれているんだ。
・強制退去のあと1週間は、陽が上がっている時間は物を取りに帰ることができた。焼け残っている家や小屋を解体し、トタン板や垂木などをリヤカーで運んでバラックを建てて住むことから戦後が始まったんだ。



きみといたふるさとの匂い

かつて暮らした旧三町での生活・景色などその当時の想いが表現されています。

旧三町(羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町)の成り立ち


海老取川の東側、現在羽田空港がある辺りは、もともと多摩川の河口に土砂が堆積してできた低湿地で、江戸時代後期に羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門が新田開発を始めました。その名にちなみ、この一帯は「鈴木新田」と呼ばれ、1932(昭和7)年には、羽田鈴木町、羽田穴守町、羽田江戸見町の3つの町名が誕生しました。

旧三町の暮らしや風景
羽田の漁業は江戸時代には始まっていたと言われており、農作物を作る合間に磯辺で貝類などをとっていたそうです。
江戸時代、この周辺の大森・品川では海苔漁が盛んでした。明治初期には羽田地区にも海苔漁の許可が下り、羽田を含めた東京内湾は海苔の一大産地となりました。

当時を知る方のお話
・子どもの頃は多摩川でよく遊んだよ。水がきれいだったから魚はすぐ釣れるし、飽きると泳いだりしてね。
・羽田鈴木町には畑もたくさんあって、ジャガイモやトウモロコシなどを作っていた。畑は冬になると海苔干し場になるんだ。

行楽地としての発展
現在海老取川の西側にある穴守稲荷神社は、かつては海老取川の東側、羽田穴守町にありました。江戸時代、風波から田畑を守るため、小さな詞を建てたことが起源と言われています。
1894(明治27)年には神社近隣で鉱泉が発見され、鉱泉宿や料理屋、 芸妓置屋などが軒を並べていきました。
この頃、京浜電気鉄道(現、京浜急行電鉄株式会社)が参詣客の足の便を図ることを目的として穴守線を開業しました。
それに伴い、明治時代後半から昭和初期にかけて、羽田穴守町一帯を中心に海水浴場や浄化海水プール、運動場、競馬場など、一大行楽地が形成されていきました。

当時を知る方のお話
料亭で出すのはワタリガニ、ボサエビやアナゴの天麩羅で、地元でとれるものばかりだったけど、それが名物だったんだ。



海と 空と 祈り 羽ばたき

平和が長く続くこと、羽田のまちと新しいまち(跡地)が発展し続けることが表現されています。

羽田空港の歴史と発展

日本飛行学校の設立と東京飛行場の開設
この地に空港ができることになったのは、1916(大正5)年に羽田に日本飛行学校と飛行機製作所が設立されたことがきっかけでした。
1931(昭和6)年には、東京飛行場が開港され、民間飛行場として国内・ 大陸定期便、遊覧機などが飛び交うようになりました。しかし、1941(昭和 16)年に太平洋戦争が開戦されると、 東京飛行場は軍の基地としての役割も増していきました。

戦後の空港接収と返還
東京飛行場は、戦後、連合国軍によって接収され、ハネダ・エアベースが建設されました。
1952(昭和27)年に日本側に一部返還され、「東京国際空港」(通称、 羽田空港)となりました。当時はまだ米軍が空港を一部使用することもありましたが、1958(昭和33)年に全面返還となりました。
羽田空港は、騒音問題や発着容量の解消のため、数次にわたる沖合展開事業の中で拡張を続け、進化してきました。現在は4本の滑走路を有し、 国際線も再開されるなど、日本を支え、日本と世界をつなぐ大切な役割を果たしています。

寄付



旧三町復元タイル

昭和11年頃の国土地理院の空中写真を使用し作成したタイルを碑の近くに設置しました。
羽田鈴木町、羽田穴守町にはたくさんの建物があり、多くの方々が生活していたことがわかります。また、当時から京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)が引かれており、穴守神社や海水浴場、浄化海水プール、競馬場などがあり、旧三町一帯が行楽地として賑わいを見せていたことがうかがえます。



さらに調べていると、大田区役所に羽田三町の復元模型があることを知り、訪問する。

2003年(平成15年)7月7日、元住民らで結成された「鈴納会」の協力により、羽田三町(羽田鈴木町・羽田穴守町・羽田江戸見町)の復元模型が完成した。

展示場所は、完成当初は羽田東急ホテル1階ロビーにあったらしいが、ホテルが移転するということで、大田区役所本庁舎1階ロビーへ移設、その後、邪魔だということで区役所2階北の端へと追いやられてしまったらしい。

撮影日 2025年7月12、14日




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