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尾張殿鷹場碑 in 東京都練馬区

2025年6月7日、石神井公園ふるさと文化館を訪れると、尾張殿鷹場碑が展示してあった。

尾張徳川家の鷹場の範囲を示すために設置されたもの。41か村にわたり83本の杭が建てられていました。

これは、大正2年ごろまで南大泉に建っていたものらしい。

これをきっかけに練馬区の鷹場碑のことを調べていたら、大泉第一小学校にもあることが分かった。

この日の東京の最高気温は34.8℃、風があるが、熱風だ。

日傘は風に翻弄され、すぐひっくり返る。

暑い上に、日傘のコントロールに疲れ、探索意欲をそぐ一因となる。

そんな中、大泉公園駅から、歩いて来て、ヘロヘロ、ヨロヨロになりながら、ようやくたどり着いた。

下校時間前にたどり着きたかったので、間に合って、よかった。

練馬区立大泉第一小学校

それは学校の構内にあった。

金網越し

金網の穴にスマホのカメラを近づけたら、全体が撮れた。

徳川御三家の一つ尾張徳川家に鷹狩の場所が幕府から許されたのは寛永一〇年(一六三三)頃といわれます。尾張家の鷹場は最盛期には武蔵国で多摩・入間・新座の三郡一八六か村、その広さはほぼ二〇キロメートル四方におよんだといいます。
現在の練馬区内では橋戸村(大泉町)と小樽村 (大泉学園町、西大泉、南大泉)がかつて新座郡に属し、尾張徳川家御鷹場のうちでした。この碑は鷹場の範囲を示す境杭で、練馬区登録有形文化財です。もとは和光市(旧下白子村字押上)に建っていたものと伝えられています。
鷹場の管理は厳しく、常に鳥見役が区域内を見廻っていました。もちろん小鳥を獲ることは禁じられていましたし、幼鳥の育つ時は静かに見守ってやり、鳥たちが過ごしよいように、みだりに竹木を伐ることは許されませんでした。いざ鷹狩の際は、道路や橋の修理、廻村役人の送迎接待、荷物の運搬や当日の人足など、村びとたちへの負担が義務づけられていました。

平成三〇年(二〇一八)三月

練馬区教育委員会




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