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国府津レトロ写真パネル展

国府津駅ホームから海が見える。

ホームにあった何か。

ホームにあるのは珍しい?珍しくない?

改札を出たところにあまり立派とは言えない木製の板に写真などが提示されていた。

国府津商工振興会
ご挨拶
日頃、国府津商工振興会をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。
国府津商工振興会とは、JR国府津駅周辺広域に位置し、みかん山と相模湾に囲まれた風光明媚な土地柄で育まれた商業・ 農業・漁業・工業を営んでいる会です。古くは、大隈重信をはじめとする著名人の別荘地として愛され、また多くの神社仏閣も現存している中、昔ながらの懐かしいお店から、最近では、お洒落な飲食店がオープンしております。皆様方に足を運んでいただける様、会員一同、安全で安心な商品の充実を図っております。
国府津の歴史としましても、童謡唱歌の「みかんの花咲く丘」 が、作曲家海沼寛氏によって、汽車の車窓から、みかん畑が現れる国府津駅付近で前奏が浮かび、伊東線宇佐美駅付近でようやく完成した曲と言われております。
このように独自の魅力をもった国府津商工振興会を、今後とも一層のご指導ご鞭撻を賜りますよう宜しくお願いいたします。
国府津商工振興会 会長 朝倉一彰

国府津

蔦屋旅館

全景

停車場前

裏側

国府津の街並みは、鉄道の延伸と発展の化と共に変貌推移してきた。
明治以降、鉄道の拠点となり、施設拡充などと共に、運送業・旅館など関連業種も発生させることにもたった
大正6年から始まった熱海線延伸工事は、 鉄道諸施設・職員官舎設置なども伴って繁栄と人口増をもたらした。
その全盛期もいえる、大正期から昭和初期にかけて、洋館風の外観を模した「看板建案」、木造の軒先に腕木を出して豪華にみせる「出桁造」といわれる建造物群が建ち並んだ商店街を形成した。
関東大震災(大正12/1923)を経たが、繁栄していた時期であり、その後に残る建物群が復興された。
しかし、繁栄をもたらしてきた、熱海線延伸などの完成、電化は、次第にその賑やかさの拠点を他地域に移ってゆくことになった。
さらに、昭和9(1933)の丹那トンネル開通によって鉄道・交通拠点としの機能は縮小されてゆくことになる。
街並みの衰微をもたらし、その後、大きな発展や変貌の要因がなかったため、近年まで、「看板建築」、「出桁造」などの建物群が残されてきたと言える。

幼いころ、昭和20年代、買い物に訪れる、本屋、時計屋、酒店などなど「看板建築」の建物の中に店先が並んでいた。
その後、次第に姿を消していったが、まだアーケードとプラタナスの並木の上から、のぞかせていた。
電線地中化など道路整備により、並木等撤去された街並みは、頭上に明るい空間がひろがったようにみえた。それは、街並みを形造っていた「看板建築」・「出桁造」などの多くの建物が消滅したことを示していた。

老朽化したこれらの建物は、その後も急速に建替えなどが進んでおり消滅してきている。

1-1-2
街路並木のあった風景
様々な店舗が並んで商店街を形成していた街並みも駐車場や空地が目立つようになってきた。
筆者の街並みの記憶は、昭和20年代頃からである。その街並みの景観の記憶もうすれつつある。
街路にはプラタナスの街路樹が植えられ、アーケードが設けられた商店街がのびていた。
そんな風景を1991年代の筆者撮影写真の一部から紹介しておきたい。

1-1-3
街並の風景の再現
看板建築」、「出桁造」などが建ち並んでいた街並みはどのような風景であったのだろうか。 震災後の景気の良かったといわれる大正から昭和初期を中心に建物の再現から街並みの景観再現を試みることにした。
街並みを構成する個別の建物外観図を作成し、街並み景観復元図を作図した。
①現存建物から、改修部分を推定し旧状外観を求めた。
②写真等から消滅した建物の外観図作成を試みたが、意外に写真は少ない。
③聞き取りをもとに外観図作成

上記の資料手段から59棟の建物外観図を作図した(表1-1)。これらを、所在地番順に並べたのが街並み景観図である。
建築年など時代的な詳細な検証は、さけた。それは、個人住宅店舗の情報入手が困難な事情などがある。

変貌してゆく街並みを時限的に表現することは、現段階では、十分な資料を得られていない。国府津を代表する震災後の「出桁造」、「看板建築」の記録を基本としたが、街道筋にあった「塗込め蔵造」店舗や「藁葺屋根」民家も加えた。結果的に、明治から昭和期に存在した建物群の混在した景観図となっている。
街並み図中に図示している、個別の建物については、スケッチ図集として「第1章-3」としてまとめている。

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街並みの賑いの記憶風景
記憶に残る、国府津の街並みは「看板建築」 や軒先を豪華に張り出した「出桁造」の様々な店構えの街並みの眺めがあり、その店先は賑っていた。その頃の店先の賑わいはどのような様子であったのだろうか。そのような頃の街並みを具現すべく街並みの一時期の風景を外観作図により再現してみた。
筆者のそのような買い物や行来した街並み

の記憶は幼かった昭和20年代頃からである。

第1章-1-5
国府津駅舎は、木造平屋の粗末な建物であった。駅の東側にあった洗面所はなぜか蛇口飾りのある不釣り合いな建物であった。
駅前には、蕎麦屋(だるま)、あさひ、パン店(大洋パン)などの店が並んでいた。
そして、映画館「ロマンス座」が開館している。
その開館は、坂東妻三郎(1901~1953)の遺作となった「あばれ獅子」(松竹京都 1953.8)を観たのが最初であるから、1953(昭和28)頃といえる。「笛吹童子」「ひよどり草紙」など美空ひばり中村錦之介、東千代之介など出演の時代劇映画を観に出かけた。

「古谷菓子店」(神戸屋ふるや店)、「日の出ストア」、国道を隔てた正面は、「国鉄国府津診療所」(現共立マンション)、隣が「国府津館」、駅前で棒状の小豆とミルクノアイスキャンデーは、よく買い求めた筆者の今でも好物である。そんな駅前の記憶がある。

店舗店の「角屋」のとおり、看板建築の菓子店が岡入口の角にあった。こぎれいな店先には、いつもおばあさんがみえていた。そして、 東に進むと、看板建築の「添田酒店」。店舗兼住宅の似たような間取りであった。土間の店先の奥は、上り框になっていて、「帳場格子」に囲まれた畳敷きの帳場があった。
いつも、御用聞きにも来ていた顔見知りの小父さんが、いつも独特の口調で奥から出てきた。
隣は、「添田酒店」と二軒続きとなっていた 「村松パン店」。子供には背の高いガラスケース越しに、おばあさんが話しながら手渡してくれた。 そして、「古谷豆腐店」、入口出窓の水槽には、 出来たての豆腐が浮かべられ、土間には、豆腐屋独特の湯気が漂っていた。
その隣が雑貨屋で燃料も営んで、利用していた「志澤商店」。店先は勿論、奥も天井まで隙間のないほど様々なものが、積み上げられ吊るされていた。その中から、ゴソゴソと目当てのものを取り出してきてくれた。店主の小父さんだけは、その所在を把握していたのであろう。食品以外の日用雑貨は、ほぼ調達できた身近な店先であった気がする。
その向いに「多田精肉店」。いつも「いいところをおまけしてあります・・・・」と、竹皮に包んで渡してくれた。
「長谷川陶器店」、国指定登録文化財指定建物。建材も扱っていたので、土管なども買い求めていた店である。土間面は、勿論、高い天井迄造られた木製戸棚、独特の逆台形の天井からの吊り具に掛けられた急須などの陶器、店舗内に入ると、一面陶器に囲まれた空間があった。
店の奥の上り框に置いた、木台で手際よく下駄の「鼻緒」をすげていた「古谷下駄店」、きれいに鉋屑を出しながら木製風呂桶を造っていた「風呂桶店」、いつも魚をさばいていた「魚屋」などなど・・・いつも店先には、人が働いていたし、その手先や様子に、興味をひいて眺めていたことが日常であった。
そんな街並みに季節々に人波があふれた。 暮には「歳の市」が軒を並べた。「達磨」「神棚」「正月飾り」や「玩具屋台」など・・・・。どこから、そんなに人が来たのだろうか? 4月の菅原神社の祭礼の行列は、大御神輿が担ぎ出され、 山車が行き交い道路を埋め尽くした。
今では、想像できない昭和30年代頃までの賑わっていた記憶に残る街並みの光景である。

1-1-5
街並み再現図
看板建築・出桁造店舗の建ち並んでいた、最盛期の震災後昭和初期の景観の再現を試みた。
記録的には、時代的に個々の建物などの推移の考察をもとに、街並み再現をすべきである。しかし、時間の経過は、多くの建物の建替え・ 消滅が進んで、その記憶も失われつつある。
特に消失した建物に関する入手資料は、少なく復元推定は一部に留まった。
結果的に、採録時代範囲も明治から昭和と拡がっている。
筆者の記憶に残る、「看板建築」のまだ未採録も多くある。採録作図した建物群を旧所在地順にならべて纏めた昭和年代以前の街並み再現風景図である。
図中の旧商店名などは、固有の名称である。が、街並みの重要な記録でもある。一部、個人宅など英字略称としているが、他の資料(開校百年-国府津小学校編)等で記載されている呼称はそのまま記載している。

 

狭くて1枚1枚は撮れなかった。

柱に展示されていたもの

(御殿場線の歩み)
1869(明治2)年  政府により東京一神戸間を結ぶ幹線鉄道建設が決定
1886(明治19年)  幹線鉄道の経路を中山道から東海道に変更
        調査により、箱根山から三島へ抜ける経路は、工事が困難なため御殿場へ迂回することが決定
1889(明治22)     国府津一静岡間が開通
          東海道線新橋一神戸間が全通
1890(明治23)年 小山一沼津間の複線化を着工
1891(明治24)年 小山(現・駿河小山)一沼津間の複線化が完成
1901(明治34)年 国府津一小山(現・駿河小山)の複線化が完成
1918(大正7)年   丹那トンネル工事が着工
1930(昭和5)年   超特急「燕」が運転開始
         東京一大阪間をおよそ8時間20分で結ぶ
1934(昭和9年丹那トンネルが完成
         熱海線が東海道線となったため、旧東海道本線であった国府津一沼津間は 「御殿場線」と改称
1943(昭和18)年 単線化による運転が開始
1956(昭和31)年 全線ディーゼル
1968(昭和43)年 全線電化
1987(昭和62)年 国鉄分割民有化、JR発足
       御殿場線東海旅客鉄道株式会社静岡支社の所管となる
1991(平成3)年   沼津一新宿を結ぶ特急「あさぎり」が運転開始
1999(平成11)年 313系による沼津一国府津間のワンマン運転を開始
2004(平成16)年 御殿場線70周年
2009(平成21)年 国府津一沼津間開業120周年
2014(平成26)年 御殿場線80周年

切符



デジタル駅スタンプ



床のタイル絵


こうづの思い出エピソード展



国府津駅開業100年周年記念碑

東海道本線の花形として活躍した蒸気機関車



国府津館の現在

入口は塞がれ、何もなくなっていた。

坂を下り、裏側に行ってみた。

解体されずに建物が残っていた。

2011年11月12日未明、「国府津館」の隣地に立つ当主の自宅で火事があったそうだが、国府津館に被害はなかったそうだ。その後、火災があったとか、経営していた兄弟間のトラブルがあったとか、理由ははっきりしないが、2013年頃、廃業してしまったそうだ。

撮影日 2025年3月25日




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