阿佐ヶ谷駅前の阿佐谷イルミネーション




昼間でも輝いていた。

阿佐ヶ谷駅近くの阿佐谷パールセンター出入口

2025年1月9日現在まだ「謹賀新年」の看板があったが、2025年1月11日再訪した時は取り外されていた。
ホームから

出入口付近にある説明板


阿佐ヶ谷の由来
江戸時代、阿佐ヶ谷村は、武州多摩郡阿佐ヶ谷村と呼ばれ、幕府直轄の天領でした。
寛永十二年(一六三五)、三代将軍家光は、江戸城内紅葉山にあった江戸城の鎮守・山王日枝神社を麹町へ移し、寄進し、繁栄を祈願。
以降、阿佐ヶ谷村を含む周辺四ヶ村は、幕末まで山王日枝神社領となりました。
江戸時代の阿佐ヶ谷村には、本村、小山、原、向の小名がありました。
阿佐ヶ谷村の地勢が、桃園川の浅い谷地だったので、浅ヶ谷と呼ばれ、古くは麻ヶ谷、阿左ヶ谷と書き、江戸時代から阿佐ヶ谷と書くようになったといわれます。
明治二十二年に町村制が施行され、阿佐ヶ谷村を含む周辺六ヶ村が合併し、杉並村となりました。
パールセンターは、権現みちと言い、大昔からあった古道・いくさ道でした。
この道は南へ進むと、青梅街道を横断し、府中から来た鎌倉街道に接続しています。
北へ進むと、練馬貫井町の真言宗・円光院に突き当たります。
円光院に祀ってある子聖(ねのひじり)大権現は、古来足腰の痛風にご利益があると言われ、大正時代までは阿佐ヶ谷村の人はもちろん近在の村々から大勢の人がこの道を通って、円光院へお詣りにいったので「子の権現への道」と呼ばれ、省略されて「権現みち」になったのでしょう。
当時、道幅は二間でしたが、両側に溝があったので正味一間(一、八メートル)ぐらいだったそうです。
大正十一年に阿佐ヶ谷駅が開通すると同時に、三間通りに拡げ、この三間通りがパールセンターになったのです。
翌年関東大震災が起こり、市内から郊外へ移住する人で杉並は新興住宅地へと変貌。中杉通りは、戦前、補助一三三号線として計画されていましたが、昭和二十年の春、太平洋戦争が激しくなり、空襲必至となったため、計画道路を防火帯にし、昭和二十七年六月に整備され、都道として開通しました。
それから三十余年経ち、今では見事なけやき並木に成長して、「緑豊かな福祉文化都市」を目指す杉並区の名所の一つになっています。
毎年八月七日を中心にして催される七夕祭りは、昭和二十九年八月に始めて以来、今日では東京の風物詩になり、仙台、平塚と共に日本三大七夕祭りの一つに数えられるようになりました。
杉並風土記中巻 森 泰樹 著 より抜粋

あったかマップ

ここは阿佐谷と書かれているが、駅名は阿佐ケ谷、銀行の支店名は阿佐ヶ谷と紛らわしい。
商店街はまっすぐなところが多いが、ここは元古道だったからだろうか、蛇行している。


アーケードには数多くのイルミネーションが飾られていた。

悪い癖で全部撮りたくなってしまったが、これだけにとどめた。
途中にある青面金剛像と地蔵菩薩像


青面金剛像
供養庚申講二世安楽修
元禄四年(一六九一年)
「庚申を供養したてまつる。二世にわたって 安楽であることを願う」という意
地蔵菩薩像
奉造立念佛講石燈一基二世安楽所
元禄四年 阿佐ヶ谷村
吉祥祈願
「念佛講のものたちで、二世にわたって安楽のため石燈一基を造りたてまつる」という意
参百弐年前に村の人々の発願て建てられたお地蔵様とお庚申様です。時代の流れをすっと見てこられました。
このパールセンターは、昔、権現みちと呼ばれ、北は子の権現様へ南は堀之内妙法寺へと大勢の人がお参りする道筋であり、大宮八幡宮大鳥居前で鎌倉街道に接続する鎌倉古道であると云われています。
現在も多くの方々がお参りされています。末長く大切に守り伝えられますよう心より願い上げます。
合掌
施主 大正拾参年創業 故長尾堅太郎
故 ス エ
平成五年拾壱月(一九九三年)
長尾家
ハロウィン2024 仮装コンテストの写真


スーパー「アキダイ」

テレビでよく見る本店は練馬区関町にあるそうだ。
東京土産の定番「東京ばな奈」の発祥の地『ぶどうの木&鎌倉座 阿佐ヶ谷店』


店頭に50%OFF商品が並んでいたので、右側の「ブリュレ フィナンシェ」を購入。

定価1,134円が560円だった。
たい焼き屋のアート

蒲鉾店のシャッターアート

商店街唯一と思われる出桁造りの建物

星座の絵

七夕まつりが解されるということで、彦星のわし座のアルタイル、織姫のこと座のベガが書かれているらしい。
青梅街道側の出入口

すずらん商店街が隣接している

シャッター商店街になってしまっているところも少なくないが、ここはとても活気のある商店街だった。