以下の内容はhttps://chutetsu.hateblo.jp/entry/2025/04/08/120000より取得しました。


井筒俊彦『意識と本質』(1)

 先日、温泉旅行中に、久々に井筒俊彦『意識と本質』を再読した。せっかくなので、冒頭から内容を整理していきたい。とは言いつつ、筆者の関心に照らして大幅に節略する箇所はあるので注意されたい。

 なお、全く異なる文脈だが、井筒の別の論考を以前ブログで取り上げたこともある(井筒俊彦「儒教の形而上学におけるリアリティの時間的次元と非時間的次元」(1) - 達而録)。

 以下のページ数は、慶應大学出版社から出た全集版(2014年)のもので、岩波文庫版ではない*1。本書の概要についてはこちら(『意識と本質』 | 特設サイト「井筒俊彦入門」 | 慶應義塾大学出版会)を参照。

 

p.7-8

 「本質」とは何か。「Xを「花」と呼ぶ、Xを「花」という語に適用する」時のことを考えてみよう。この前提には、「Xがなんであるか」ということ、すなわち「Xの「本質」」がとらえられていることがある。Yを「石」とする場合も同様。「本質」がないと、X、Yを同一律的に同定することはできない。つまり、無数の「本質」によって区切られ、複雑に聯関しあう「本質」の網目を通して分節的に眺められた世界が、われわれの日常的世界である。

 「意識」とは何か。それは、事物事象の「本質」を、コトバの意味機能の指示に従って把握するときに生起する内的状態である。「本質」把握が、前反省的・無自覚的・気分了解的にあって、そこから、意識がXに向かって滑り出していく。「……の意識」とはそういうこと。意識の初動の瞬間において、Xはすでに何かである(=「本質」把握)。

p.10-13

 コトバの意味的指示機能と事物の「本質」把握には、本源的な相依相関がある。「言語以前」から「言語以後」に転換するところに「本質」が出現するから。「Xが一定の名を得ること」=「一定のものとして固定されること」で、そのためには、他の一切から識別されること(=「本質」の認知)が必要である。われわれの日常的世界とは、こうした原初的な「本質」認知の過程を省略して、「初めからできあがったもの」として見られた存在者の形成する分節的存在地平である。

 では、「言語以前」の本質がない世界とはどういうものか。表層意識に身を置く人は、絶対無分節の状態(「本質」脱落・言語脱落)を受け入れられず、狼狽し(サルトルの「嘔吐」体験)、その立場から存在世界の実相を見ることができない。しかし、東洋の哲学的伝統ではそうはならない。むしろ、このような次元の存在こそ、神、または神以前のものであり(荘子の渾沌、華厳の一真法界、イスラームの存在一性論の依拠する絶対一者など)、深層意識の地平から、表層意識の次元に現れる事物を眺めることができる。(表層意識と深層意識の区別については後に詳しく論じられる。)

p.16-20

 そもそも「「本質」は虚構である」という考えもある(大乗仏教存在論など)。ただ、こうした考えでも、「本質」はないが、言語による「本質」喚起機能については認める。たとえば「言語によって(「本質」という)妄念が生まれる」というように。その好例が「偏計所執性」、本当は何もないところに何かがあるようにわれわれの意識が妄想し出したもの、という用語。

p.21-27

 ここから、経験的事実として存在する事物も妄想の所産で、世界は夢幻である、という方向に進むことも考えられる。しかし、東洋的思惟パターンにおいては、「本質」の実在性は否定しながらも、経験的世界についてはニヒリズムではなく、分節された存在に実在性を認めるという潮流がある。

 こうした「本質」ぬきの分節世界の成立の正当化をする例として、禅、シャンカラの不二一元論的ヴェーダーンタの哲学、イブン・アラビーの存在一性論が挙げられる。たとえば禅が要求するのは、「本質」による凝固性の分節ではない、「本質」抜きの、流動的な存在分節を実践的に認証することであり(絶対無分節的無)、これは「本質」喚起機能をもつコトバを、「本質」を喚起せずに使うことに主眼がある。ヴェーダーンタの哲学なら、有的充実の極限としてブラフマンを想定し、この実在者が限定を受けて、限定された形(ブラフマン仮象的形姿)であらわれている、と考える(絶対無分節的有)。存在一性論は、存在を唯一絶対のもの、「本質」を無とする立場で、存在の特殊な限定的顕現形態として「花」が現れる、と考える。

p.30-36

 以上は、大きく見ると「本質」を否定する方向性で軌を一にする。しかし、これとは逆に、「本質」の実在性を肯定する潮流もある。ただ、その議論に入るためには、まず「本質」という語を定義し直す必要がある。

  1. 西洋哲学で「本質」(essentia)を議論する場合の普通の意味の「本質」がある。普遍者、また概念的普遍者、つまり個別の事物の客観的認知を可能にする、媒介としての普遍性のこと。人間の意識の分節機能によって普遍者化され、一般者化され、さらに概念化された形でそれらの事物が提示する「本質」であり、ものの普遍的規定性とも言い換えられる。
  2. 一方で、存在者をその「前客体化的」具体性において、真に具体的な個物として成立させる実在的核心を「本質」と呼ぶこともある。人が原初的存在邂逅において見出すままの事物の、濃密な個体的実在性の結晶点としての「本質」で、ものの個的リアリティーとも言い換えられる。

p.36-37

 イスラーム哲学においては、この二つを異なるものとして異なる術語に定着させた歴史がある。それが、① 普遍的「本質」=マーヒーヤ、② 個別的「本質」=フウィーヤ、そして両者を合わせて広義のマーヒーヤ、という術語である。

p.40-41

 では、この二つの関係は何なのか?そもそも個物に二つの「本質」があるとはどういうことか?

 多くの思想家はこう考える。現前するXを、現実世界に存在させるものが、個別的「本質」である。しかし、われわれがそのXに表層意識から目を向けるとき、共同的な形姿で現れざるを得ないのであって、それが普遍的「本質」である。普遍的「本質」は概念に過ぎないのであって、概念的世界以外のどこにも普遍的「本質」は存在しない、と。

 しかし、これでは満足できない人もいる。つまり、普遍的「本質」こそ、Xをものとして具体的・個別的に成立させる存在根拠とする考え方である。井筒は、このタイプの議論(マーヒーヤ肯定論)を三種類に分けて、その内実に迫っていく(p.57-)。これが本書でもっとも分厚い内容の部分である。次回の記事では、この区分を紹介するところから始めたい。

 ただ、その前に、井筒は少し具体例に寄り道して議論を足している(p.43-57)。

 井筒は、現代のフッサール現象学においても、両者の不安定性は露呈していると述べる。たとえばレヴィナスは「厳密ならざる「本質」」を立て、具体的現実性に密着し、普段に生成転変する現実の起伏を忠実になぞれる可塑的な「本質」を考えた。メルロ・ポンティは、「「本質」を実在性から引き離す」ことに対して、実在性から「引き離された「本質」」こそが「言語化された「本質」」のこととした上で、それとは別に、現象学的還元の操作から直感される「本質」は、言語の意味分節の網目を通さずに、ものから直接、純粋意識に立ち現れてくる、と考える。

 次に、リルケ芭蕉を例に出して、詩人に見られる、マーヒーヤを排除し、一回きりのフウィーヤへの飽くなき探究を試みる態度について説明している。

 


 以上、今回は議論の前提部分を整理した。井筒の文章は、いわゆる「哲学」の本の中では、かなり読みやすい方だとは思う。つまり「オレが世界を解明できればそれでよい」という文章ではなくて、「読者に分かって欲しい」という意志を感じさせる文章ではあると個人的には思う(いや、他の哲学者もそういうつもりで書いているのかもしれないが……)。

 今回再読して感じたのは、井筒は「同じ概念をさまざまに言い換えながら説明していくことで、深みを出していくスタイル」*2なんだな、ぐらいの感覚で、ある意味「甘く」見積もって格闘してみると、意外と読み通せるかもしれない、ということである。もっともこういう読み方だと、井筒が幅広く挙げている具体例を細かく読解しないことになってしまうので、理解した気になって落とし穴にはまることもありそうだが。

 さて、井筒を肯定的に評価する言説は少し調べればいくらでも見つかるので、井筒批判として読みごたえのあったものを一つ挙げておく。

 石井 公成 (ISHII Kosei) - 井筒俊彦の言う「東洋哲学」なるものを疑う - 論文 - researchmap

 仏教学者の専門的見地からの批判だけではなく、もう少し大きな面での井筒の研究スタンスについての批判もなされていて、非常に参考になる。以下、ここから一節だけ引用しておく。

井筒の議論は、神秘体験によって感得される言葉を超えた根源的な世界、そしてそれを何とかして言語表現しえた達人の言葉を、分節・無分節という言葉で見事に図式化したものではあって、存在一般、言語一般に関する議論ではなく、美しくも醜くもある現実の世界と対峙することはできずにいるのです。(p.37)

 私としては、井筒は存在一般、言語一般に関する議論をしていないと言い切ることには躊躇するが、井筒は現実の問題と対峙していない、という批判は首肯できるものである。実際、本書に収められている「イスラーム文明の現代的意義」の後半では、現代イスラームの政治問題について伊東俊太郎と意見交換がなされているが、正直、物足りないというか、何なら軽薄という感は否めない。言うまでもなく、井筒の半生は、イスラエルが欧米の支援の下でパレスチナを植民地支配し、その領土を広げていった歴史と重なっている。こうした情勢において、井筒は、アラビア語を自在に操り、イスラーム哲学の専門家であり、欧米の学者との交流を持つ国際的な大家として知られていた人として、言うべきことがあったのではないか、という批判はもっとなされるべきだと思う*3

 ただ、井筒の「本質」論には、何らかの可能性、具体的に言えばクィアへの応答可能性を見出せるように思うところもある。たとえば上で言われる「X」に「女/男」といったコトバを代入して考えれば、色々な可能性が見えてくる。井筒が言及しているフッサールレヴィナス、メルロ・ポンティの著作も、近年ジェンダーセクシュアリティの観点による研究が進められているし、井筒はデリダに敬愛された学者でもある。やっぱり、井筒の言説を資源として使うことはできないのか、と考えてみたくはなるところだ。井筒は性愛的な文脈は避けるか、流すところがあるように感じるので、直接的に資源にするのは難しいかもしれないし、資源にするにしてもわざわざ井筒である必然性は見出せないかもしれないが、可能性ぐらいは見ておいてもいいだろう。

 ひとまず、次回に続く。

(棋客)

*1:ちなみに、この全集版に合わせて収められている「イスラームの二つの顔」は、シーア派スンニ派などのイスラームの考え方の概説としてとても読みやすいものなので、推薦したい。

*2:船山徹氏が、中国仏教では訓詁の言い換えによって概念を重ねていく、という説明を書いていたが(いま出典を忘れてしまった)、そういう訓詁学的な説明を想起したりした。

*3:政治問題の問いかけに「そっちの方じゃ私はいっこうに発言できないんですよ(笑)」(p.451)と答える井筒の言葉もあり、政治問題を回避することは井筒の自覚的な選択だったと考えるべきだろう。




以上の内容はhttps://chutetsu.hateblo.jp/entry/2025/04/08/120000より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14