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自分の研究の今後の方向性を考える(3):橋本秀美『論語―心の鏡』から

 前回の続きで、橋本秀美『論語―心の鏡』岩波書店、2009)の内容面(つまり橋本先生の解釈の実践)についてもう少し考えてみる。かなり批判的な言及になったが、本著が『論語』と中国古典の解釈の営みを見事に言語化した名著であり、初学者の方に勧めたい本であるという私の評価は変わらないことを、最初に断っておく。

 

 まずは、橋本の示す論語解釈をざっと説明しておく(p.177~)。かなり雑にまとめているので、注意してほしい。

 『論語』をはじめとする儒教経典においては、あくまでも自分自身を中心として世界を見るという考え方が根付いている。「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」の八条目が分かりやすい例で、天下の統一安定という大問題についても、自分自身の修養を根本とする考え方が示されている。

 費孝通は、これを自分自身を中心にして徐々に遠くまで広がっていく「個人中心相対関係社会」としてとらえ、西洋社会の主流が「団体中心固定関係社会」であることと対比した。この二つは以下のように区別される。

  • 中国伝統社会の主流:個人中心相対関係社会
    各個人を起点として各種の社会関係が考えられており(同心円的社会関係)、誰を起点とするかによって、集団・団体の範囲は全く異なる、同じ一人の人間を起点とて見た場合も、その人の属する集団・団体は重層的、境界は明らかではない。
  • 西洋社会の主流:団体中心固定関係社会
    集団・団体の観念が固定的に存在、自明のものとして実態であるかのように感じられており、個人は必要と状況に応じて集団・団体の一員となる。誰がその集団の構成員で、誰がそうではないかが明確。

 『論語』の場合、国家・天下も結局は為政者個人の道徳の問題になり、政治や経済をよくしたいという話でも、「為政者が個人道徳を正せ」としか言わない。自分自身が思考の主体で、根本で、出発点になっている。つまり、自らの関心を自己に収斂させよという主張である。

 橋本によれば、孔子の「個人主義・自己中心的思想」は、個人主義でありながらも、相対的なものであり、個人・自己を根本としながらも、そのような個人が多数いて社会が成り立つことを意識している。孔子は現実的にものを考え、人類を平等に愛し公正に賞罰を下す神とか、構成員間の平等・公正を保障する集団・団体といった抽象観念を信じなかった。

 この孔子の教えは、我々に最低限の道徳と社会秩序を確保する道を示してくれる、と橋本は指摘する。何故なら、孔子の説く道徳は、そのような信仰が完全に否定された状況に立脚して考えられているからである。人間みなそれぞれ自分を中心に考えて生きている。橋本によれば、それを認めて、そこを出発点として、何とか社会をより善いものにしていこう、というのが孔子の教えということになる。孔子は、恭・敬・忠という個人の道徳をきちんと守っていれば大丈夫だ、という。抽象観念の信仰抜きに考えられた『論語』の道徳は、人間の本質から考えられた最低限の原則を基本にしているから、西洋でも日本でも十分通用する、と橋本は主張する。

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 以上の部分について、私が考えたことを書いておく。

 まず、仮に、この橋本の解釈が正しいとして(つまり「孔子は、信仰が完全に否定された状況に立脚して考えた」のだとして)、ではなぜ孔子がそう考えたのかと問うたとしても、私には単に「孔子がそういう存在を信じなくても生きていける人間であったから」という答えしか思い浮かばない。

 橋本による、孔子が「人類を平等に愛し公正に賞罰を下す神」や「構成員間の平等・公正を保障する集団・団体」といった抽象観念に対するオルタナティブとして、「人間の本質から考えられた最低限の原則」としての最低限の道徳を提示したという解釈には、隠されてしまう問いがあるのではないか。それは、その「最低限の原則」がどこから来るのかという問いである。

 前回の記事の内容とも重なるが、「最低限の道徳と社会秩序」として広く承認されるような概念は、その承認の過程で必ず政治的意図が介入している。政治的意図を介入させるのは、当然、権力を持つ人か、マジョリティである。上の橋本の書き方では、人間の本質に備わった最低限の道徳なるものが存在するように印象づけられるが、それは必ず誰によって作られるものであるということに問いが向けられなくなってしまう。(言うまでもないが、作られるものだから価値がないというわけではなく、いくらでも作り替えの余地があるからこそ、解放の可能性が開かれているのである。)

 上の解釈は、いわゆる「公正」を担保するものがどこかにないと生きていけない人(抽象観念を信じる人)の存在を、「現実的ではない」として切り捨てる解釈になっていると思う。でも、そうやって生きている人はたくさんいるわけで、それはまぎれもない現実でもある。このあたりはもう少し深く考えていきたいところだ。

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 さて、橋本の行論に戻る。先に「最低限の道徳」の話を説いているが、ここから、では『論語』が個人の要求する道徳とは何か、という問いに進んでいく。

 橋本は、「孔子儒教の始祖であるから、そこに説かれるのは忠とか孝といったいわゆる封建思想かと思われがちであるが、『論語』の個人主義は本物であり、個人の抑圧を推奨したりすることは決してない」という。たとえば、孔子は、親に対しては「はずれないように」と徹底した「孝」を唱えるが、君主に対しては絶対服従を否定する。

 間違ったことは間違っていると言ってもよい。ただ、何でも思った通りに言えばいいというわけではない。ただ、自らの行いは正しくし、弱点は作らず、言論は控えめにして、攻撃されるのを避けよ、と孔子は指南する。

 こうして、個人が自由に判断して仕官したりしなかったりすることを、橋本は「個人中心の考え方」とする。孔子は、君主が暴虐で政治が混乱している時には、真面目に考えずに愚者を装え、と述べる。暴虐の悪行を助けることはしてはならないが、正面衝突することも避けた方がよい(無駄死にだから)と言い、これが個人中心の考え方と橋本はまとめている。

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 再び私の考えを述べると、このエピソードを「個人の自由な判断」として解釈できるのも、それ自体が特権的であると思う。「無駄死にするよりは」と迎合しながら生きていける人がいるのは確かだろうが、迎合できず、または一方的に敵視されて、政治に文字通り殺される人たちもいることを忘れてはいないか。その必死の抵抗を「無駄死に」と表現されたのではやり切れない。まず、これを「個人中心の考え方」「個人の自由な判断」と言ってしまえることが、色々なものを切り捨てた解釈になっていることを指摘したい。(つまり、色々なものを切り捨てた上で、残された特権的な人の「自由」だけを取り出して、「個人の自由な判断」として解釈することに、違和感があるということである。)

 また、それを尻目に「愚者を装う」のは、結局、物申す立場と知恵を持っている君子としての責任を果たさず、暴虐な君主に加担してしまうことと同じなのではないか、という指摘とも向き合う必要があるだろう。橋本は、孔子は「社会的正義がいずれ実現されるであろうことを信じていた」とし、道徳を身につけ、十分な能力があれば、いつかは必ず社会に認められるといっているとも指摘している。しかし、ここで「ではそれを実現するのは誰なのか」という問いが出てこない。

 暴虐な政治や君主に対して、「君子」たちが愚者を装って隠れてしまっては、社会的正義など永遠に実現しないのではないか。むしろ儒教の歴史を見ると、その方法を取りながらも、社会正義を実現させるための装置として、「抽象観念」としての「天」が考え出されたのではないか。つまり、橋本の解釈が、

  1. 社会正義の実現の方法論について考えもしない点、
  2. 方法論がないならないで「信じる」ことに賭けるしかないのに、橋本の孔子解釈は「抽象観念を信じない」ことに出発しておりこのことを説明しようがない点、

の二点において不整合を抱えていると思う。

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 再び橋本の行論に戻る。先ほど、「孔子は、親に対しては「はずれないように」と徹底した「孝」を唱えるが、君主に対しては絶対服従を否定する」とあることから、では「親に対しては絶対服従なのか」という問いが浮かぶであろうが、これに対する橋本の説明が以下である。

もちろん、政府には弱者を助け、市民の安全を保障する義務があり、我々はその誠実な履行を要求し続けるだろうが、それを当てにしてはいけない。そんなものを当てにしようとすれば、言われるがまま次々と自由を奪われて、知らない間に身動きも取れなくなってしまう。本当に頼りになる可能性があるのは、身近な人間である。だから、身近な人間との関係を大事にしなければならない。もちろん、近くにいれば誰でもよいということではなく、互いに信頼し合える人間が大事なのである。そう考えたとき、一般的に言って、一番身近で信頼し合えるのは親子の関係であり、兄弟の関係である。(p.205)

 親子関係・兄弟関係に限定しなくていいとは思うが、ざっくり「手触りのあるつながりを大切にしよう」という話はよく分かる。ただ、「政府を当てにしてはいけない」なんてうそぶいて、自己責任論に陥った成れの果てが、橋本が書いている「荒廃した日本社会」の現状なのではないか、とは指摘したくなる。

 ここで橋本が強調しようとしているポイントである「身近な人間を頼りにすること」自体は、わざわざ「政府を当てにする」ことを腐さなくても十分に主張可能であるはずで(その二つは両立することだからだ)、にもかかわらず、こういう言い方になってしまうところにこの解釈の限界を感じる。(逆に言うと、別物であるはずなのにわざわざ言及するのだから、実は橋本は強調したいのはこっちなのではないか、とも勘繰ってしまう。)

 この直後、橋本は、「孔子は、子供は親の奴隷になれ、と言ったのではなく、周りの大事な人間との結びつきを固めよ、その第一歩として親子の絆を固めよ、と言っているのだ」と改めて強調している。私は、『論語』の中での親子関係の言及は、「親→子」と「子→親」では明確に非対称性があるという印象を持っているので(あまりにも当然そういうものだと思っていたので、いまきちんと根拠を言語化できないが)、その非対称性を均等にしてしまう解釈では切り捨てられるものが多いと思う。

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 『論語―心の鏡』全体の趣旨は、そのタイトルの通り、『論語』の解釈は自らを映す鏡だということが説かれている。つまり、上の解釈は橋本の主張を映す鏡でもあるということになる。前回の記事で橋本が述べていたように、「これが『論語』の正しい読解なのか」という問いをかけてもあまり意味がない。だから、以上の私の批判の主旨は、「橋本の解釈は『論語』の正しい読解ではない」というところにあるのではない。そこではなく、「橋本の解釈で前提とされている世界線」に対する批判をしたつもりである。

 私個人の感覚では、橋本の『論語』解釈は、橋本が想定しているのとは別の意味で、これまでの『論語』解釈をなぞるものになっていると思う。過去、中国でしばしば民間信仰を中心に民衆の抵抗運動が起こったことを想起すると、これまでの『論語』解釈で切り捨てられてきたものが何なのか、分かりやすいのではないだろうか。つまり、これまでの『論語』解釈が切り捨ててきたものと、橋本の解釈が切り捨てているものは、多くの面で重なっていると思うのである。

(棋客)




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