久しぶりに小説を読みました。有吉佐和子著『悪女について』です。第一刷発行が昭和53年とあるので、45年以上前の小説ですね。
まず、構成が面白いの。謎の死を遂げた主人公(富小路公子)の謎に満ちた生涯とその人となりについて、27人の、生前の彼女を知る人々による証言。証言のみが順々に書き連ねられるのです。富小路公子自身は登場せず、他人から語られる、他人の目を通した彼女の姿しか私達読者は知ることが出来ないのです。永久に。もどかしさはあります。にもかかわらず最後まで読ませるのは、有吉佐和子の筆力によるのでしょうね。
ラジオの人生相談で加藤諦三氏がしばしば、「ナルシストは現実を見ない」という事をおっしゃるのですが、私には良く理解出来なかったその言葉の意味が、富小路公子という人物描写を通してはっきりと掴めたような気がしました。
富小路公子にとって、この世は本来の自分(自分が考えだした理想の自分)が生きるべき舞台なのです。脚本・演出・主演、自分。公子の望む世界を構成するように「ああせい、こうせい」とばかりに他人を利用します。そこでは、他人は割り振られた役割を忠実に演じるべき脇役であり、場面場面で、公子による筋書き通りに動くのが当たり前であり、生身の人間として、その感情や尊厳などが考慮される必要はないのです。
作中で語られる公子は平然と嘘をつき、他人を陥れることに躊躇がないのですが、本人は嘘をついているという意識さえ無いのだろうと思いました。公子にとっては、場面転換したに過ぎないのでしょうから。
以前、「一流の詐欺師は嘘をついているという意識がない。なぜなら自分でも自分の口から出る言葉を信じているから」という文を読んだことがあるのですが、成る程、確かに富小路公子は詐欺師と言えるでしょう。それも超一流の。
こんな風に、加藤諦三氏の言葉の他にもう一つ、私がこの本読んで分かったことは、詐欺師には罪悪感というものが無いのだろうと言うことです。本当の悪党・悪女というものは、罪悪感というものを持たない、そう思いました。恐ろしい。
すっかり活字離れしてしまった私なのですが、久しぶりの読書は、やっぱりいいものだなと思います。自分は少しも危害を加えられる事なく「恐ろしい」思いが出来るって、なかなか無い事です。面白さというものの構成要素は色々ありますが、「恐ろしさ」もその一つですよね。ほら、怖いもの見たさって言うじゃないですか。
そういう意味では、男性がいわゆる「悪女」というものに惹かれるのももっともです。怖さの魅力ですね。公子も本当に魅力的な女性だったと、多くの人が証言しているのでした。では。