前回の二元論の否定に続いて、西田哲学の根本に有る「無の思想」についての部分を要約してみた。
読んだ本↓
【3つのポイント】
・西洋における有の思想と無の思想
・西洋における無と東洋における無の違い
・西田哲学の東洋的性格
西洋における有の思想と東洋における無の思想
一般に西洋の思想は有の思想であるのに対して、東洋の思想は無の思想であると言われる。この有・無とはなにか?それは存在する、存在しないということではなく、真の実在を有と見るか?無と見るか?ということである。すなわち、「形があるもの」を真実のものと置くか、「形がないもの」を真実と置くか?ということである。
そういう意味で、古代ギリシアの時代から一般に西洋では「形のあるもの」を根源的実在と考えてきたし、東洋では伝統的に「形のないもの」を「形のあるもの」の根源と考えてきた。例えばギリシアでは一般に、あらゆる有を生み出す根源的な有があるはずだと考えられており、プラトンの「善のイデア」やプロティノスの「一者」という概念が生まれた。また、聖書の「創世記」の冒頭では、「創造主である神が混沌から宇宙を創造した」と書かれている。これは無からの創造を説いたもののように思えるが、あくまで神の絶対的な意志の力を強調する言葉であって、神による創造以前の虚無の存在を示す言葉ではない。むしろ一切の有の起源として神(絶対有)の存在が想定されている。

これに対して東洋では、永遠に変化しないようなものは何ひとつないと考え、すべて形のあるものは無から生じると考えてきた。例えば仏教では全ては何かの因縁によって生ずるのであって、自分自身で独立に存在しているものはひとつもないと考えた。すなわち根源的な存在は何かの形を持った恒常的存在ではなく、形をもたない純粋な作用、ないしは働きであると考えたのである。

西洋における無と東洋における無の違い
更に「無」について詳しく考えてみよう。ギリシアでは、無は有の否定、形の欠如、すなわち「非有」(有じゃないもの)と考えられた。無という言葉は英語ではnothing, nothingnessという。文字通りthing(物)のno(欠如)のことであり辞書にも「somethingでないもの」「not anythingのこと」だと説明されている。これに対して東洋において無はあらゆる有を生み出す積極的な概念であった。これは西洋にない概念であり、西田の弟子の久松真一は「東洋的無」とか「能動的無」と言っている。
ところで、世界の根源を有と考えるか、それとも無と考えるかによって二つの異なった世界観が生まれてくる。「どちらの世界観が正しいか?」ということはカントの言うように経験的世界を超えた問題であるので科学的に実証したり検証することはできない。しかし、純粋に論理的な観点から考えるならば世界の根源を有と見るよりも無と見る見方のほうが整合的であるように思える。もし世界の根源を有すなわち「形のあるもの」と考えれば、その有の原因を考えなければならず際限がない。(この連鎖を断ち切るために西洋では「第一原因」とか「究極原因」といった論理的にそれ以上遡ることができない存在を発明せざるを得なかった。)では、世界の根源を一切のものを包み込む普遍的な何か「形のあるもの」と考えてみたらどうか? しかしそうしたところで、それをを包むより普遍的なもの、より大なるものは何か?と考えることができ、際限がない。

これに対して世界の根源を無と考えればこの悪循環を回避することが出来る。誰も無を包むものを考える必要がないからである。無自身には大小も原因もないので、それを包むものやその根源を考える必要がないのである。
西洋では、伝統的に根源的実在を対象的方向(自分(主観)に対して、像として立っているものという意味)に超越したところに考えてきた。つまり、根源的存在を自分の外に、自分を超えて有る形象的なものとして考えてきた。プラトンのイデアもキリスト教における神もそうである。自分の外に存在するということは神は人間と異なった別個の超越的な存在であり、修行しても神やキリストになることはできない。絶対他者である。

(絶対他者)
これに対して、東洋、特に仏教思想においては根源的実在はどうしても対象化できないものとして内在的方向に考えられてきた。形のないものは対象方向に見ることができないからである。従って無は有のように対象的・超越的方向にではなく、どこまでも内在的方向に、自己の底の底に見られる。仏教でいう仏とは「覚者」、すなわち「目覚めたもの」、真の自己に目覚めたものである。従って、たとえ煩悩にまみれた一般人であっても修行をし、努力をすれば仏になることができる。すなわち仏は真の自己であり、絶対自者である。

西田哲学の東洋的性格
では西田の立場はどうかといえば、一貫して根源的実在を対象的・超越的方向にではなく、反対にそれをどうしても対象化しえない、内の内なるものとして内在的方向に求めている。そしてその無はギリシアのように相対的な無ではなく、あらゆる有を包み、生み出す根源であるから「絶対無」と呼んでいる。それは何か形のあるものではなく、あらゆる存在、形あるものを生み出すような根源的な作用である。西田の著作「働くものから見るものへ」の後半ではあらゆる「有の場所」(対象界)や「意識の野」(意識界)を超えてそれらを包み込む「絶対無の場所」を考えているが、ここで注意したいのはここで言う「包む」ということを外延的でなく内延的に考えていることである。西田は「絶対無の場所」を「点」で説明しており、自己の内の内、底の底に見られるものとしている。それは我々の自己そのもの(絶対自者)なのである。

感想
西洋的には「形のあるもの」を真実に置くという話は、うなずけると思った。というのもフランスで生活して一ヶ月、本当にフランス人は目に見えないものは存在しないと考えているように思えるからだ。その意識は衛生観念に現れる気がしていて、彼らは目に見えるゴミや、汚れは気にするが、目に見えない細菌の存在は全く気にしていないように思える。彼らは何も気にせずシンクを磨いたスポンジでそのまま食器を洗ったり、バスタオルを一週間洗わなかったりする。日本人的意識では、シンクにいるばい菌が食器に付きそうだし、バスタオルも洗わないと菌が増えそうと考えてしまうが、彼らは全く気にしないのである。ばい菌は見えないので存在しないのと一緒なのだろう。ここらへんの違いは無の思想と有の思想の違いから来ていると説明できなくもなさそうである。
また、西洋的な根源的実在は対象方向に存在するが、東洋的な根源的実在は自己の内側に存在するというのも西洋と東洋の文化の違いに現れていると思った。私はヒーローものが好きで西洋の代表的なヒーロー、マーベルヒーローも東洋の代表的なヒーロー、ウルトラマンも好きである。どちらの世界にも神的な存在はいるが、マーベルヒーローでの神はコズミック・ビーイングなど、ある一つの個体、対象方向に存在する絶対的な他者として描写されることが多いのに対し、東洋のウルトラマンでは、仏=ウルトラマンに主人公が「変身する」という描写が多いように思える。このような描写の差に、根源的実在が、絶対的な他者として存在し、自分とは別の個体として存在する西洋と、絶対的な自己として自分の奥底に存在する故に、自分がその存在に「なれる」東洋の違いを感じる。