
縦の写真は巨大に表示されるので横にしてみましたがやっぱり若干違和感ありますね。
しその復活
今年唯一植えた赤しその苗は、そろそろ収穫期か?と思った矢先にどこかの誰か(動物)に茎だけを残して食い尽くされてしまっていました。
が、先日ふとみたら、復活していたんですよ。
わさわさと。
しそが根こそぎ(茎が残ってるので根こそぎではないけど表現として)食われちゃって、やる気をなくしちゃって、いや他にも怠け者っていう理由もありますが、草抜きをしなくなってわさわさしてるその一帯、前回根こそぎ食い尽くした誰かもまだ気が付いてないのかも。
そして、わざわざ苗を買ってきて植えたんですが、実は数年前に植えたやつの種がこぼれたらしいのが、毎年勝手に生えてきてた場所がありまして、そっちは今年は生えてこなかったから、とうとう死滅しちゃったかな〜、なんて思ってたんですが、そっちもなんだか夏の終わりがけから再生してくれました。
なーんだ、ならあえて苗を買ってくるまでもなかったな。
しかも、植えた方の赤シソは動物に狙われたけど、ちょっと場所が違うけどこっちはそういえば毎年誰にも狙われないし。
同じ家の敷地内ですから、若干離れているとはいえ近所の猫くらいならあっちもこっちも歩いて移動してるから、よっぽど小さな動物だったのか、土地勘のない動物?だったのか。
とにかく、また謎の動物に食べ尽くされる前に収穫して使いましょう!

というわけでゆかりというかシソふりかけを作ってみましょう。
洗って、塩して水洗いして塩もう一回、水洗いもう一回、絞って、刻んで、昆布の粉末(昆布茶にあらず)と一緒に炒め、で収穫したしそは全て使い切りました。
ジュースを作る分はありませんでした。
RU
2023、Charles-Olivier Michaud監督作品
原作はKim Thuy。
ベトナム戦争の戦火から逃れ、ケベックに難民としてやってきた少女Tinhが戦争で破壊された故郷での生活や平和だった頃の友人との時間、ボートピープルとなって戦禍を逃れた記憶などを抱えながら、受け入れ側のケベックの社会にためらいを見せながらも少しずつ馴染んでいくお話。
映画だけでは及ばない深みがありますが、これは原作を読めばもう少し理解できるだろうと思われます。
が、少女の心の痛みや彼女や弟たちを守り育てようと必死な両親の様子、受け入れ側の良き隣人的ケベック人たちの様子などがよく描かれていると思いました。
地味だけど観てよかったです。
ベトナム難民、紛争地域からの難民
幼い頃、テレビのニュースなどで目にし耳にしたベトナムやカンボジアなどの紛争と、戦禍を逃れて平和な世界へとやってくるボートピープルや難民の人たちの様子。
そんな状況の人たちの様子が映し出されていた映像はよく覚えています。
あの頃は東南アジアからの難民でしたけど、そのあとはアフリカの飢餓、ルワンダ、コソボ、世界のあちこちから、故郷では生きていかれない状況のもと、遠い異国へ難民として逃げていくしかない人々が、西欧の豊かな国々へ移動して行きました。
自分がカナダにやってきて、モントリオールで袖をすれ違う人々の中には、そうやって生存を賭けて命からがらやってきた人たち、その子供の世代の人たちなどがたくさんいますが、普段はそういう話をすることはありません。
親しくなっても、やっぱり無意味に苦労話として持ち出すには重すぎるし、それより将来のことを考えて生きているんでしょう。
タクシーに乗ったり、病院などで掃除をしてらっしゃる人など、母国ではお医者さんだったとか技師だったとか、そういうパターンも多いですから、「難民、移民」で目の前で貧しい暮らしをしている人こそ実は母国では成功していたとか社会的にも責任のある仕事についていたとか、そんなことはありがちです。
よそからきて、言葉が不自由だったり、生活の拠点を動かしたばっかりに収入が少なかったり富が蓄積できてなかったり、といった表面的なことで見下されたり失礼な扱いを受けたりすることもあると思います。
社会的弱者を無碍に扱ったり失礼な態度をとるような人間にはなりたくないものです。
映画の中で描かれているケベックの人々はとても善良で、遠いアジアの人々の習慣や言葉に不慣れなために戸惑いはするものの、好奇心と善良さと豊さからおおらかに登場人物の一家を受け入れています。
基本的にケベックの人々はこの映画で描かれているような感じで、愛すべき人々で、何世代にもわたって入ってくるよそからの移民、難民を受け入れ続けてきています。
元々は自分たちだってヨーロッパからの移民だった社会ですしね。
それでもやはり、アメリカの政策の影響を受け、陸路での難民の流入のボリュームが一気に増加した折などは反発もあったし、文化的背景の異なる人々の振る舞い方を嘲るような発言があったり、社会の中にはレイシストも存在しますから、良いことばかりではありません。
世界中のどんな社会にも人間の善と弱さは同時に存在するし、差別のない社会などありません。
性別であれ人種であれ、使う言語であれ、何かが自分と違う相手を、十把一絡げにこうと決めつけて排出しようとするのは、基本的にその特性との接点が少ない場合に多くみられると思うので、現在のケベックよりもベトナム難民が押し寄せていた当時の方がやはり難民にとっては生きにくい社会だっただろうと思います。
世界中が右翼傾向にあって、移民への風当たりが強くなってる国があちこちに見受けられる昨今、つい視点がそっちへいってしまいますね。
差別反対、戦争反対