◎8月24日に放送されたこの番組。無差別爆撃を扱った内容で、あの評判の朝ドラ「虎に翼」の主人公寅子のモデルである「三淵嘉子」さんの『原爆裁判』にもふれています。ドラマでは丁度今週「原爆裁判」登場です。
「東京裁判」は勿論知っていますが、「横浜裁判」というのは初耳?! A級戦犯(戦争指導者)を裁いた東京裁判に対して、BC級戦犯を裁いたのが横浜裁判だったということです。日本の法務官が、米軍の市街地空襲を国際法違反の無差別爆撃として、捉えられた搭乗員を戦争犯罪者として裁いていたと知って驚きました。内容を保存しておきます。
ETV特集 無差別爆撃を問う~弁護士たちのBC級横浜裁判~[Eテレ] 8月24日(土) 午後11:00 〜 翌午前0:00今も世界で続く市民への無差別爆撃。79年前、日米の法律家はこの問題にどのように取り組んだのだろうか。BC級戦犯横浜裁判を新たな史料と証言で読み解いていく。敗戦直後、BC級戦犯が裁かれた横浜軍事法廷。いま神奈川県弁護士会は裁判の再検証にあたっている。注目しているのが市民への無差別爆撃。戦時中、日本軍は空襲後に捕らえた搭乗員を戦争犯罪人として軍律会議で裁き処刑した。しかし戦後、米側は捕虜を不法に殺害したと主張。軍律に基いて裁いた日本軍の法務官が戦犯として裁かれた。番組では新たに公開された再審査記録をもとに、法の公正を守ろうとした弁護士たちの格闘を描く。【語り】萩原聖人

2022年 2月~ ロシア ウクライナ侵攻
2023年10月~ イスラエル ガザ地区攻撃
今世紀で国際法に違反する無差別攻撃が繰り返されている。太平洋戦争中、日本は市街地をねらった無差別な空襲にさらされた。
ナレーション(以下N):捉えられたアメリカ軍の搭乗員は、戦争犯罪者として日本軍の軍律により処刑された。搭乗員を裁いたのは、法曹資格を持つ日本軍の法務官だった。
被告(日本軍法務官):「彼らが軍律に違反する無差別爆撃の罪を犯していると確信しました。日本の軍律に従えば極刑しかないと思いました。」
N:しかし、彼らは終戦後、アメリカ軍が行ったBC級戦犯横浜裁判で訴追された。
米軍検事:処刑された搭乗員たちは、”戦争捕虜”なのです。”捕虜”として扱われる権利があったというのが私の主張です。
N:搭乗員たちは捕虜で処刑は不法だと主張するアメリカ。これに対し日本側の弁護士は反論した。
横浜の弁護士たちは新たに発掘した戦犯裁判の記録を読み取ろうとしていた。

「無差別爆撃認定されてしまうことは、やはりアメリカ側からしても好ましくない」
「非戦闘員を無差別に攻撃する戦争のやり方は国際法違反で戦争犯罪だと思うんで…」
N : 無差別爆撃をめぐる裁判は今に何を問いかけるのか?
弁護士たちのBC級裁判を見つめていく。

N:79年前、横浜で開かれたBC級戦犯裁判。

検事:この戦争犯罪者が行ったアメリカの捕虜に対する罪が日本において裁かれたものだ。
N:戦争指導者A級戦犯が裁かれる東京裁判に対して、横浜では捕虜の虐待や残虐行為に関わったBC級戦犯が裁かれた。被告にはアメリカの弁護士が付いた。
横浜裁判では、横浜の44人の弁護士たちは、新たに証人探しや聞き取り調査などに奔走した。その一人

横溝貞夫弁護士は長野の捕虜収容所で虐待などの罪に問われた所長や看守の弁護に当たった。5人が絞首刑となった。横溝弁護士の義理の娘で自身も弁護士の正子さんは当時の裁判のことを伝え聞いた。
正子さん:捕虜収容所の同僚だった人から、そんなひどいことはしてませんって供述書を集めたり、証人申請したって採用してくれない。日本人側も証人に出るのに一寸怖がってたかもね。死刑、絞首刑しかないのに、それが出来なかった悔しさが一番強かったと思います。
N : 『勝者の裁き』と言われてきたBC級戦犯裁判。しかし、今、裁判の新たな実像を示す記録に弁護士たちが注目している。
横浜みなとみらいの一角にあるドックヤードガーデン。ここにあった造船所では連合国の捕虜50人以上が死亡した。

本間「ここが現場」
井上「ここで実際に捕虜の方たちが働いていたところですよね」

N:終戦後、捕虜収容所の所長や看守たちが、その責任を問われ戦犯裁判で3人が絞首刑の判決を受けた、ところが、うち2人はその後死刑が減刑されていたのだ。
井上:判決がそのままになるのか、それとも減刑されるのか。
私が持っているものが、レビュー(再審査記録)と言われているものです。

N:最近発掘された再審査記録(レビュー)。裁判は一審制だから判決が下る。

N:神奈川県弁護士会では1997年から間部俊明弁護士を中心に裁判記録の読み解きを続けてきた。(左奥が間部弁護士)

井上:まずレビュアー(再審査官)が言ってることは、112ページ、「このような事件に臨む際には個人が死亡したからと言って誰かに責任があるに違いないという態度を避けることが最も肝要である」。非常に法律的に真っ当である。
間部:法律論だ。刑法理論に沿った・・・
N:再審査記録で審査官が減刑の理由を記していた。

N:捕虜の死に対して証拠不十分とする勧告が承認された。2人絞首刑から終身刑、重労働30年の刑に減刑された。こうした再審査によって死刑を宣告された123人が51人までに減った。
間部弁護士:51人絞首刑になったことは重い事実なんですけど、それぞれの事件のレビュアー(再審査官)が減刑意見を言って採用されたからだと思うんですね。その実情、ディスカッションの経過を我々は知らなきゃいけないけれども、勝者の裁きとか言われるんだけど、そんな単純なものじゃない。
N:今、間部たちが注目しているのは、戦時中の無差別爆撃を扱った事件だ。

名古屋大空襲
名古屋では太平洋戦争中、60回を超える空襲にみまわれた。最も重大な被害を受けた1945年5月14日の大空襲は市街地を焼け野原に化した。この空襲で墜落した米軍機の11人の搭乗員が捉えられた。
伊藤信夫法務少佐:空襲軍律により11人が死刑となった。
空襲軍律、その制定の切っ掛けは、アメリカ軍が初めて日本本土を襲った1942年4月18日のドーリットル空襲だった。この空襲の際に墜落した搭乗員を裁くため、空襲軍律は制定された。以降、国際法に違反する無差別爆撃を行ったものは重大犯として処罰される。
「軍罰は死とす。死は銃殺とす」。違反者を審査する軍律会議、非公開で弁護士は付けられていなかった。
1945年7月11日、東海軍管区岡田資(たすく)司令官の命令のもと11人の米搭乗員の軍律会議が開かれた。この日のうちに死刑が確定した。しかし、戦後、BC級戦犯裁判で伊藤をはじめ4人が罪に問われることになる。
1948年1月22日、横浜
以下、再現ドラマ
「名古屋 米搭乗員処刑事件 伊藤ケース」
(米極東軍司令部法務部文書より)

主な罪状は、捕虜11人に無効なる起訴を行い、故意か不法に殺害したというものだ。
大きな争点の1つとなったのは、搭乗員たちの身分をどう捉えるかという点であった。
トーマス・オコナー刑事の主張「処刑された搭乗員は”戦犯捕虜”です。1929年のジュネーブ条約やハーグ条約などに準拠して取り扱われる権利があった」と申し述べた。
一方、伊藤につけられていたアメリカ人のカーク・マドリックス弁護士は軍律会議の正当性を主張した。
「私たちは搭乗員らが捕虜になる前に行った行為について、”戦争犯罪人”の容疑者として裁かれたことを主張します。搭乗員らの爆撃が日本の規則だけでなく、国際法に照らしても無差別だったことを示すつもりです」
では、名古屋への空襲は、無差別爆撃だったのか。
オコナー刑事(は異を唱えた):戦争中、名古屋は航空機製造の中心地だったというのは本当ですか?
伊藤:日本の航空機製造の中心の1つだったと聞いています。
N:戦争中、航空機製造の中心地だった名古屋は爆撃対象となり得るというのである。
マドリックス弁護士:争点は1つです。彼らが名古屋を無差別爆撃したか?否か?
ここに証拠があります。第2航空戦隊戦術任務報告書からの抜粋です。1945年5月14日の記録です。
オコナー刑事:そんな証拠資料があるなんて全く知らなかった。
マドリックス弁護士が証拠として提出したのは「アメリカ第20航空戦隊戦術任務報告書
1945. 5.14.」

「攻撃目標は名古屋北部の市街地(Urban Area)とされていた」
「使用された爆弾は榴弾曳火(えいか)や破片爆弾ではない。”焼夷弾のみ”とあります」
N:この爆撃計画により名古屋にどのような被害が出たのか。
間部弁護士は「戦争と平和の資料館 ピースあいち」を訪ねた。
名古屋空襲の記録を読み解いてきた西形久司さん(右奥)さんと金子力さん。

金子さん:この辺がお城なんですけど、攻撃目標のポイントが5つ設定されて・・・
N:攻撃目標の多くが住宅密集地でした。

西形さん:アプライアンス火災、到底、消火できないような、手に負えない火災を起こすという、それが実はアメリカ軍のB-29部隊の大都市空襲の最大の目標になるわけです。
1945年5月14日、午前8時過ぎから、500機あまりのB29で、爆撃開始。焼夷弾が投下され、1日でおよそ6万6千人以上が罹災する大規模な空襲となった。
当時12歳だった今村實さんは家が全焼した。
今村實さん:右の方を見たらね、自分の家を含めた三軒長屋がね火がついてボーっと燃えとるんですわね。もうこんなもんは完全に住宅地をねらった無差別爆撃です、間違いないです。
N:焼夷弾に荒らされた市民の悲痛な声を残されている。
「名古屋空襲誌」より
北区在住 母親「防空壕の隣の六年生の子供が焼夷弾で首をちぎられて死んでいた」
繊維工場勤務 男性「町内の人が無残な死体となり、ぎっしりと並んでいます」
「顔のない遺体」「肉塊だけをちりとり箱に入れた身元不明の遺体」
間部弁護士:本来は、こんなことはあっちゃいけないわけです。あの…攻撃する側に、やっぱり戦争のルールの逸脱があったとしか言いようがないですね。

横浜大空襲
N:間部弁護士自身、1945年5月の横浜大空襲の直前に生まれている。
間部:父親の実家が全焼した。家財道具が全部焼けちゃった。大変な状態を目の当たりにしてましたね。後に無差別爆撃という言葉を知るわけですけれども、そんなことが許されるんだろうか・・・
N:こうした無差別爆撃を当時、国際法ではどのように捉えられていたのか
マドリックス弁護士(最終弁論):さて委員会の皆様、無差別爆撃が戦争犯罪になるのか見ていきましょう。オッペンハイムの『国際法』によれば、「国際法」は上空からの無差別爆撃から非戦闘員を保護している。そして、このような爆撃は戦争犯罪である。民間人を恐怖に陥れて軍事的性格を有しない私的財産を破壊もしくは損傷させ、非戦闘員を負傷させることを目的とする空爆は禁止されています。私達は今核の時代に居ます。今後、原子爆弾が使用されるようになれば無差別爆撃を禁ずる国際法は必然的に無意味なものになってしまう。
N:もともとアメリカの司法省に務めていたマドリックス氏は、なぜ日本側の弁護士を務めたのであろうか。マドリックスの子孫を訪ねた。
アメリカ・ジョージア州、マドリックスの孫、ティム・ヒーリーさん(72歳)。
自身も弁護士になった。帰国後、マドリックスさんは人権問題に関心を持ち、弁護士を続けていたという。
ティム・ヒーリー:公正で下調べを怠らない仕事ぶりでした。公正さを買われBC級戦犯裁判の弁護士に選ばれたのだと思います。
ティム:イスラエルとハマスの戦争みたいだ。まるでイスラエルのガザへの無差別爆撃が批判されているようだ。祖父には伊藤が起訴されることが不公平に思えたのでしょう。彼が裁いたアメリカ人搭乗員は国際法に反する無差別爆撃を行っていたのです。
今、我々は原子爆弾が存在する時代に居て、第三次世界大戦の恐怖もある。それが祖父の頭にあったのでしょう。人々が巻き込まれる無差別殺戮を止め抑制するために法があるのだと。
N:無差別爆撃、国際法ではどのように規定してきたのか。阿部教授は、マトリックス弁護士が示した法は当時各国が守るべき慣習国際法だったという。
阿部「このオッペンハイムという人は、20世紀のもっとも著名な権威ある国際法学者です。この本がベースにしているのは1923年の「空戦規則」というものです。

N:1923年に制定された「空戦規則」。
この空戦規則によって民間人を殺傷する爆撃は厳しく禁じられることになった。
阿部教授:当時の軍事大国の法律の専門家が作り上げたものとして非常に高い権威を与えられた。各国に「空戦規則」が取り入れられていく。これが無差別爆撃の禁止として「空戦規則」で打ち出されている。
N:しかし、日中戦争では日本の重慶爆撃(1938~)で、多くの市民が犠牲となった。

連合国軍はドイツのドレスデンを爆撃(1945年2月)、無差別爆撃は繰り返された。
阿部教授:国際社会は無差別爆撃を許さないというルールを作りつつも、実際には無差別爆撃が行われてきて、これについて責任追及が全く行われない局面が多かったと思います。

空襲軍律の規定は当時の国際法のルールに合致していましたから、ゆえに空襲軍律に基いて、無差別爆撃をした敵の兵士を裁くことは国際法上、何の問題もなく法務官として当然やるべきだった」「しかし、問題は軍律をどのように実施するか手続きにある」
N:国際法違反として無差別爆撃を問うた日本の軍律裁判。しかし、BC級裁判では、その手続きが問題となった。軍律会議の翌日、1945年7月12日、11人の搭乗員たちは斬首により処刑された。軍律の問題点-軍律に定められていたのが銃殺だった。オコナー検事はその不備をついた。
オコナー検事:あなたは検事あるいは法務官として、軍律では死刑執行が銃殺刑によるものと定められているのを知っていましたよね。
伊藤:軍律は法律ではありません。司令官の命令なのです。

N:マドリックス弁護士は伊藤が上官の命令に従わざるを得なかったことを強調します
マドリックス弁護士:あなたは圧力をかけられませんでしたか? 軍律会議を出来るだけ早く開始させるよう迫った人はいましたか?
伊藤:早く調査を片付けろという指示でした。岡田中将のところに承認決裁をもらいに行ったときも、この仕事を終わらせるのが遅すぎると言われました。
マドリックス弁護士:岡田中将から処刑の実行を命じられれば拒否することが出来たのでしょうか?
伊藤:命令が下達された以上、拒否することができませんでした。
N:そして開廷から1ヶ月半後の1948年3月4日「被告人伊藤信夫を絞首刑に処する」。
これは、判決の日に写された伊藤の写真だ。

ところが、この後、伊藤は再審査を受け、終身刑と減刑されることになった。どのような議論があったのか、神奈川県弁護士会が再審査記録を分析した。
再審査記録には空襲が無差別爆撃か否かについては記述されていなかった。しかし、マドリックス弁護士の主張が反映されていた。

任務報告書そのものが、攻撃目標を「名古屋北部の市街地(Northern Nagoya Urban
Area)」としている」

「アメリカ人の弁護人がアメリカ本土から爆撃地に対して『北部名古屋市街地』だとか、焼夷弾しか積んでいないことの記録を自国から持ってきているのがスゴイなと思います」「きちんと被告人のために立証しているのも弁護しているのも正直、感服せざるを得ないのかな、と。あるべき姿を、法律家としてやっていたんじゃないかと思います」
N:一方で再審査官のマックアレン・フリータッグは軍律会議の進め方を批判した。
「裁判手続きがわずか1時間半で終わったことは重い。罪状は被害者に通訳されず、彼らは命がかかった裁判を受けていることなど知る由もなく、全てが終わった」
冨田創一弁護士「いわゆる即決裁判をしてるだけだから、当然、弁護人はいるとか、反対の尋問証拠とかやってるとは思えない」
間部弁護士「公正な裁判という水準で考えると、これは欠陥と言えるんだろうという気がします」
N:上官の岡田資(たすく)司令官は伊藤の判決の2ヵ月後、1948年5月13日、絞首刑判決を受けていた。再審査会はその点を考慮していた。


「岡田さんが全部罪を被ってくれたんだから、その下を絞首刑にするより減刑というのは、ひとつ筋が通るんじゃないか」
「上から作られた軍律の内容に従って軍律会議を開いて、その責任を伊藤さんが取らなきゃいけないか、どうか。これは他のBC級裁判と関わる上官命令になるかもしれませんが、上位の者たちより厳しく処罰されるべきでないと言って減刑しているんです」
N:伊藤は絞首刑から終身刑に減刑され、10年後に釈放となった。伊藤は獄中で手記を残している。名古屋空襲の被災地を目の当たりにした時、強い憤りを感じていた。

「『爆撃の残虐性を見よ』と絶叫したい気持ちを如何ともなし得ない。無差別爆撃の厳然たる証拠が今でもなお存在しているのだ。たとい勝者の権力をもってするも、この事実を抹殺することはできない。事件の真相はいつか必ず分るときが来ることを信ぜられる」
N:伊藤の次男、真(まこと)さんも手記を残した父の思いをこう語る。

伊藤真さん:自分はやるべきことをやった。間違ったことはしていないという自信はもっていた。戦争犯罪を裁くということが結局どういうものなのか、日米がケンカをするという意味でなく、そういう記録を残しておく、裁判のことを後世にしっかり残しておいて、何らかの役に立ったらいいなと思っていたのは間違いないと思います。
つづく