猫は人間に「近い」けれども、それに反して異なっている。彼らは、人間に飼いならされているというよりも「近く」にいることを主体的に選択した少し変わった動物だ。
さて、その猫の不思議さについて精巧に表現をおこなったのが、『俺、つしま』だ。Twitter漫画としてネットに投稿された本作は、2018年には小学館より文庫本として発売され、2019年6月現在までには『俺、つしま2』も発売されている。今回はこの作品について、簡潔ながら考えていきたい。
さて、その猫の不思議さについて精巧に表現をおこなったのが、『俺、つしま』だ。Twitter漫画としてネットに投稿された本作は、2018年には小学館より文庫本として発売され、2019年6月現在までには『俺、つしま2』も発売されている。
本作は、とにかく「つしま」ら猫たちの写真のように見えるくらいの繊細な顔の描写や、猫の些細な日常を語る「実際的」エッセイ性に定評がある。一応、猫を飼っているブログ主からみても表情やエピソードが手に取るように想像でき、おもわず、わが愛猫に重ねてしまいそうになった。また、「つしま」たちはもともと保護猫であり、一匹オオカミの側面があることが余計に「猫らしい本質」をもった描写が引き出されたようにもみえる。この漫画に出てくる猫はみな「ツンデレ」であり、いわゆる「イメージ」としての猫を思わせる。そのため、おそらくあまり猫になじみがなかった方にも読みやすい構成になっているだろう。
無表情の表情
「つしま」顔はかなりのインパクトを持っている。「ふてぶてしい」というか「威圧感」があるというか。猫のオスは顔が大きいほうがモテるらしいので、彼本人がたびたび発言するように色男なのかもしれない。多くのコマで登場する「つしま」は、真顔で無表情、その発言もわりとニヒルだ。
・「おじいちゃんだっていついなくなっちゃうかわからないだろう」
・「疲れてても一応相手をしてやった。まったくニンゲンには手がかかるよ」
・「俺、つしま。天涯孤独の旅ガラスだ。(猫だけど)」
むかし、かわいがってくれていた(川端康成のような風貌の)おじいさんが亡くなって取り残されたこともあり、人間に対しふくざつな心境を持つということが、このようなニヒルな発言と「威圧」間のある無表情に影響しているのかもしれない。あるいは、猫が表情筋をあまり持たないので必然的に「真顔」が多いからともいえるだろう。しかし、この「真顔」が逆説的に「同じ」ではなく「近い」ところにいる猫の表情を引き出してくれる。
ひとつは、真顔と対照的なわらったような寝顔の「かわいらしさ」が引き出されること。猫は気持ちのいいときや寝ているとき目をつむるが、これがほっぺたが上がってわらっているように見える。真顔でニヒルなことを言っても、現在の彼の同居人のおじいさん(本当は女性)に対する「愛着」は隠せない。おじいさんの「隣」で寝ることはつしまの日常だ。普段「無表情」だからこそ、寝顔にその隠せない「愛着」や「至福」、「充足」が強調され、ネコ独特の矛盾した「ツンデレ」の表情が見えてくる。その表情を導き出すのが確実に「同じ」ではなく、「近い」という距離感なのだろう。
一体化したい私たち、近くにいたい猫たちの欲望
この漫画の一番の特徴は、視点がネコにあることだ。筆者であるヒト側ではない。ここには、潜在的に“一緒に同じように生きたい”、“理解したいという”人間の潜在的な欲望が反射されている。しかし、この作品では「同じ」/「近い」という少しちがった欲望を悲劇にしない。ちかいけど、ちがってしまうことをまるで「アンジャッシュ」のすれ違いコントのようにズレを喜劇にしてしまう。飼い主たる人間の勘違い(掃除機をつしまと勘違いする、ネコたちが嫉妬していると思うなど)は、かわいらしく滑稽だし、ねこの天然さ(良かれと思っておじいさんが好きだと思う、すぐに考え方を変えるなど)もリアルでいとおしく見える。
この漫画は、人間とねこがちゃんと違った動物として愛をもって描写されている。そこですれちがうちょっと切ない両者の認識の違いは、実はお互いの勘違いによって滑稽で絶妙に「ちょうどいいもの」として成立することの側面を見せてくれる。擬人化ではなく、猫がネコとして独白している唯一の作品かもしれない。
- 作者: おぷうのきょうだい
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2018/04/26
- メディア: 単行本
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