ZAZEN BOYSのライブを見に野音へ。毎年ライブ見てるけど一番良かったかも。かもめ児童合唱団は坂本慎太郎のロボットになろうのコーラスやってたくらいしか知識がなくてKIMOCHIで適当にコラボすんのかなと思っていたらガッツり激しい曲で歌っててくらった。ブルーサンダーとか永遠少女とかアルバム出る前の野音で聴いた時もスタジオ版でもいい曲だけどちょっと小賢しいなと思ってしまう自分もいたのだがこの日の演奏は全員の向いている方向が同じな感じがしてバンドとしてこの曲を書いた理由が少しわかった気がした。

夏の野音で普通に熱中症警報出てたのでビオレの冷えタオルとか着替えとか万全の体制で臨んだので快適に見れた。演奏にのめり込んでいたからあまり気づかなかったけど曲間で腕を触ったら汗がヤバくて準備してなかったらやばかったなと実感。実際倒れてる人いたし。
いつの間にか9月。カネフスキーの三部作がユーロスペースでやっている。とりあえず家で動くな、死ね、甦れを観る。本当に傑作。初めて見たのもユーロスペースだったけど、ほとんどBGMもないこの映画のどこに惹かれるのかいまだにわからないけど、狂ってしまった科学者の顔のロングショットとかスケート靴を盗み返した後の少年の息だけが聞こえる闘争劇とか、グッと心地よい内向的さに取り込まれる瞬間がいくつもある。あの世界は地獄のような様相だけれど、それでも映画の構造として監督があの世界を映画を撮影することでもう一度蘇らせているわけで(映画内でいくつも監督の声が挿入される)、監督自身があの世界に惹かれているのがわかる。
そんで土曜日にユーロスペースで"ひとりで生きる"を観る。冥界の映画だ。ファーストショットから前作の続編的に監督の声から始まりシーンが巻き戻される。カネフスキーは牢獄されていて晩年になってやっと映画が作れるようになった人だからか、迷いがないというか、映画内で自分の撮りたい世界を作るという観察者の視点が一貫している。ウディアレンとかゴダール的な第4の壁の破り方ではなく、本当にこちら側へ問いかけている感じ。つまり、映画の中の役者は我々ではなくカメラのこちら側にいる監督に向けて話しかけるし、演技をしているのだろう。だから節々に楽しそうなカネフスキーの笑い声にも納得できるし、メタ的な視点ではなく監督内の世界として内向的な視点として観客には享受されるように思う。
節々に挿入される謎のシーンは全て主人公(監督自身)の幻視だろう。サーシャが人間として蘇って大人たちに殴られてしまうシーンは冒頭の反復であるし、ラストにゆりかごのようなベットから起き上がって蘇るのは前作で死んでしまったガーリャなのか、今作で多分死んでしまっているワーリャなのか。いずれにせよこの映画を作ったことでガーリャは何度も死んで蘇るし、主人公は逃避行の中で永遠に彷徨い続ける。それはラストシーンで画面に向かって消えることを宣言したとしても、フィルムが巻き戻って最初のシーンに繋がってしまえばまた動くな、死ね、甦れという掛け声と共に物語が反復される。映画というものが反復という名の冥界であることをこの連作を観て思い知らされた。
それと、マジで余計はお世話だが、ひとりで生きるの上映中、遅れて映画館に入ってくる人が複数いて、冒頭のシーンを見逃した状態でこの映画を見るとヘビーで猥雑なだけの映画になってしまうんじゃないかなと思った。ユーロスペースは椅子とか硬くて体力使う映画館だから嫌な映画体験になってたらもったいないよなと思った。前述したライブとかもそうだし、昔クーリンチェ少年殺人事件を映画館で見に行った時もカフェインを一滴も取らずに万全の状態で五時間に挑んだり、すごいものを見るためには受け取る側の準備が必要だったりするものだ。観客を楽しませてナンボみたいな態度でいると見逃してしまうものも多いだろうな。
岩波文庫のプラトーノフ短編集があまりに良かったのでよくわからん出版社から出ている他の本も購入。死の匂いに釣られてあまり気付けていな方がシーンの飛び方が結構異様で、岩波文庫の方でもいきなり子供が教授になって廃墟に戻ってきたり、今読んでる方でもいきなり男が記憶を無くしたり、物語の文章としてはシームレスなのに内在する人たちの思考がぶつ切りになっているのが面白い。
今作っている曲が結構めんどくて、チューニングを変則で試してみたり、リズムチェンジを考えたり。悩んでる時が一番楽しいけれど苦しい。時間が飛んでゆく。ただ、先週までに揃えたエフェクターがほぼ理想通りの音が出せててあとは作るのみ。