新緑の季節なので歩いているだけで目が楽しい。朝起きて散歩して昼休みに散歩して夕方に散歩をする。
林芙美子の浮雲を購入して読む。短編集と比べると重苦しい話で、流石に戦争後の心情を反映しているからかあの暗い話でも明るい人たちといった雰囲気は無い。それでも描写の面白さ、ベトナムのシーンとの絡め方(時系列)の上手さでもって惹き込まれる。成瀬巳喜男の映画だとベトナムのシーンはあっただろうか。ずっと暗くてあまり好きではなかった記憶だが久々に見てみたい。
青木淳吾-憧れの世界を読む。これはすごい。映画版の耳をすませばの小説への翻訳ということではあるが単純な物語としても面白い。子供の頃、金曜ロードショーで観て翌日に小学校に行ったら友達があんな話現実味がないとおこっていたのがすごく記憶に残っている。自分は恋愛映画でなく、初めて創作活動(この言葉は好きではないけれど)に手を触れる怖さとその一回性にとても惹かれたので、理想郷とは全然思わずにむしろ作り上げた物語が全然満足のいくものでなかったところに残酷さを感じた。最後の恋愛としての決着はただ物語上の結末としてあるだけで本質は物語を"初めて"書くに至るまでの"あの"瞬間を映像化したというところにあると思う。"憧れの世界"でもまさにそういうところが小説として切り取られていてよかった。映画では聖蹟桜ヶ丘が舞台として設定されていてその高低差の面白さと、現実世界の隣に常に空想世界がある中学生の感じがとてもマッチしている。
子供の頃にこの映画を見て、拙くてもやらなければわからないことがある、と知れたことが本当に良かったと今でも思う。
自分の住んでいるマンションの一番広い部屋の物件が賃貸で出ていたので見学する。同じマンションの違う間取りの部屋から観る外の風景は、その高さの違いから何だかとても変で並行世界の景色のようだ。ちょっと夢に出そう。
渋谷のBunkamuraで見たい映画をやっていてそう言えばBunkamura行ったことなかったなと思ってとりあえず会員登録する。来週出社するタイミングがあるので帰りに行ってみたい。
散歩をしながら写真と視界の差分を考えていた。景色を見ていいなと思った瞬間に写真を撮ったとして、その写真には視界で見た良い部分が残ることは少ない。そこで写真で特に気になったところを中心にトリミングするとその良さに少し近づくように思う。多分だけれど、視界は手前、奥の全てを見ているわけでなく、例えば奥にある景色に気を惹かれている時、手前の景色は写っているけれど視界にはないのだろう。目で見えているものがそのまま脳に返還されるわけではなく、認識するという処理が入るのだから、見えているが見ていない箇所があるのだろう。それを写真に撮って改めて視界としてみた時、そのある部分を含めて全体が風景として出てくるのでその良さが再現されないのだと思う。
ただここで重要なのがその認識として視界から消えている手前の風景の気配も含めて、奥の景色に惹かれていることもあるということだ。この場合、奥の景色だけをトリミングしてしまうとその魅力は削がれてしまうだろう。これを再現するためにはどうしたらいいか。
例えば2枚の写真を用意して手前と奥を分けて視界の分裂を測れば良いのか。VRのように視界を再現してその中でまた奥を眺めれば良いのか。
写生文
○2025/5/11 午前10:00~10:30
自分の住んでいるマンションの内見をする。物件前集合だが、住所をバレたくないので一度外出する。マンションの隣にある横川親水公園で読書をしようとベンチを探すけれどいつもの場所は休日の親子連れで埋まっていた。道の途中にあるベンチに座ると木漏れ日の中で気持ちが良い。家から近い場所のベンチなので座ったのは初めてだと思う。いつものベンチは開けた場所にあるので木漏れ日はないのだが、このベンチに座るとひんやりとした影の中その向こうに陽に当てられた人工の川の流れが見えて一つの視界に明暗があるのが面白い。内見まで15分くらいあるので林芙美子の浮雲を読む。ページを開くと木漏れ日の影が落ちる。影によって陽の光がキラキラ光っているように見えるのが不思議だった。