年末なので実家へ。本をたくさん買って読む。
宮城俊作-庭と風景のあいだ
古井由吉-蝉の声
丸谷才一-年の終わり
似鳥鶏-名探偵誕生
谷崎潤一郎-陰翳礼讃
野崎まど-小説
ミハル・アイヴァス-もうひとつの街
小山田造子-穴
"庭と風景のあいだ"を読んでオープンスペースやランドスケープアーキテクチャの概要を知った上で街を歩けるようになった。本の中で語られる建築物単体ではなく街~オープンスペース~建築物の連結/集合としてランドスケープを定義するという考え方にはとても納得した。特にここ数年その風景やあり方に惹かれて通っている千葉県の染井野団地についても少し違った視点で見れるようになったと思う。パーソナルスペースとしての建築物(内)と街や公園としてのオープンスペース(外)が内と内が集合することで一つの風景としての"外"が立ち上がるというランドスケープの捉え方、染井野団地の構造である団地内の道が通常の団地ではアクセスできない家の裏側(一段先の道)につながっていて、しかも路地道ではなく家と一段先の家の接点を一直線の道として繋げることで裏であり表である道として繋げるという構造がリンクする。ランドスケープからよりパーソナルな道まで外とするこの構造の面白さの秘密が少しわかった気がする。





本を読んで、散歩をする年末。年末の映画はシネコンも休みが多いからかあまり面白いものを上映しないイメージ。古本屋も休みなのでとにかく歩く年末だった。
レコ屋も休みなので、昔の音源を聴きながら歩く。高田渡の歌を聞いていて今でもハッとさせられる歌詞が多く、すごいなあと素直に驚く。高田渡はごあいさつあたりから現代詩を引用し出すけれど、そう言ったところも含めてやはり歌詞の人だなと思う。最近の音楽を聴いていてとくに不満はないのだけれど、音響でも編曲でも歌詞でも射程範囲が現代に寄りすぎているのではないかと思う時がある。(音楽だけでなく映画やドラマや漫画でも感じる)現代の問題に対して、何かを提起する、現代社会の生きづらさに対して理解を示す、ということにそれほど必要性を感じないし、その裏には寄り添うことでバズるところへつなげたいという思いがやはり見える。普遍的であることが正しいとは思わないけれども、売れるために合わせる部分の度合いがとても高くなっていると思う。売れる=成功という思考がテン年代と比べて格段に高くなって気がするのは余白がないからなのか、全ての人が批評家であるという今に対する防衛策なのか知らないけれど、例えば歌詞にまで現代に向けて標準を合わせる必要はあるのだろうか。
上述したランドスケープアーキテクチャの内と外で言えば、歌詞の世界はパーソナルな"内"の部分が多い気がするが、その"内"が完全に"外"の領域に内包されてしまっているものが多いイメージ。そのひとつの"外"の中にある"内"であれば売れるし、フィクションとしても有効かもしれないが、別の"外"が現れることだってあるし、その際にその"内"はまったく別の"外"にアクセスできない偏在性を持たないものだと私は思ってしまう。(つまり普遍性がないということ。)
いま、この世の中で、有効であることよりも、これから先どこかで有効になるかもしれない、という状況でとどめたい、と強く思う。それがなぜかはわからないけれど、高田渡の歌を聴いていて、過去にあった思いが今の私に繋がる感覚が自分には響く。
音楽や映画や漫画や小説は、等価交換の世界ではないので今ここで全ての対価を得ようとする必要はなくて、過去に誰かが書いた歌がずっと未来に別の誰かに届くことだってある。もしその人がその曲を生涯愛して、その家族もその曲を聞いたとしたら、例えば作曲家がほんの数時間で書いた曲がずっと先の全く知らない世界で有効であるとしたら、(そしてそれは実際に今の世界で起こっている。私がクロードソーンヒルを聞いて感動したように。私より下の世代にソーンヒルを聞いている若者たちが最近よく見かけるように)等価交換ではなく、各自の"内"の中で勝手に増えて行くものだと思うから、自分は普遍性を一つの基準と取るのだろう(普遍性ということばは少し違和感があるけれど)
今年はバンドでライブをしたいなと密かに思っているが、上記のようなことも考えていて、だから演奏の上で"内"と"外"をきちんと理解しなければと思っている。内輪で盛り上がるだけでの演奏は避けて、全く知らない人が初めて聞いたとき("外")にもその"内"を感じるためには内と外を裏返したり、連結したりする必要がある。
それは例えばグルーブのある演奏で気持ちを確保するだとか、MCや言葉の力で活気づけるだとか、音そのものによって何かを想起されるだとか色々とやり方があると思うが、自分達には何が合うのかまだわからないので色々と試していければと思う。