連休で暇なので髪切ったり遠くのブックオフへ行ったりする。ブックオフでブルカニロ博士編の銀河鉄道の夜が売っていたので購入。ますむらひろしの漫画は読んでいたが原作でこの編集バージョンは初めて読む。
セロのような声の青年、はバンドceroの元ネタでもあるし知ってはいたが原作で読むと夢の外の声として聞こえるので物語内物語の感が強くなる。
"そしてみんながカムパネルラだ"というこの物語の核心のセリフもこの青年から発せられる。このバージョンを成り立たせるのであれば、ラストのカムパネルラの父とのシーン(友人の死が知らされる場面)は冒頭に配置した方が良いのではと思った。
みんながカムパネルラだ、という遍在可能性が示された後にカムパネルラという固有性を示されると少し後味が悪い。
未完なのだからどうとでも出来るかもしれないが(全く描かれていない新しい章の可能性だってある)例えば同じ未完の作である夏目漱石-明暗で考えるとあくまで次の章が描かれずに終わっていて、章の入れ替えの必要性/可能性は感じない。銀河鉄道の夜は宮沢賢治の死によって中断されたわけでなく、各章が書かれた上で宮沢賢治によって推敲の途中であったのだから入れ替え可能性も含めて考えるべき稀有な作品なのかもしれない。
改めて読んでみて、銀河鉄道に乗った旅であるため景色や人の移り変わりが早く、その疾走感は、幻想世界とは離別した現実的な感覚として現れる。化石発掘のプリオシン海岸以降は鉄道から降りることはできずあらゆる幻想世界は車窓から知覚されるのみだ。ジョバンニの、あくまで内向的な、自分と一緒にどこまでも行ってくれる友人を求める心理側と、それとは全く別の幻想世界としての車窓の外の流れが、最後の石炭袋のシーンでジョバンニとカムパネルラの見える景色のずれによって破局する。新幹線に乗っている時の車窓の眺めとただ座って物思いに内向的に耽るしかない感覚と同調する。
岩井俊二の少年たちは花火を横から見たかった、を観る。本編は正直もうまともに見れないけどこのドキュメンタリーはとても面白い。
映画が出来るまでの推敲がまさに銀河鉄道の夜と同じように画面に捉えられている。
本編で二つの世界に分岐する典道は、しかしなずなが母親に連れて行かれるシーンをどちらも感知しているのではないか?
少なくとも観客はどちらも感知しており、だからラストの、次に会うのは二学期だね、のセリフに裏の意味を知覚する。
小説や映画において、演出による暗示によって先を感じさせることはよくあるが、この作品のように明確に未来の結末を示した上でその前の最終シーンにいたるという構成はなかなか無いのではと思う。