16連休に入る。バンドの練習+忘年会やったり坂本慎太郎のライブ行ったり。
毎年リキッドルームで坂本慎太郎を見ている気がするが毎年良い。今年はギターの歪みがいつもより強かった気がして激しい演奏のところでかなりテンションが上がった。ドラムがドラムンベースみたいなライドの使い方をしていてどうやって音作りしているのか気になった。
連休なので本をたくさん買いたいが何を読もうか悩む。とりあえず西村しのぶのRUSHを購入。めちゃおもろい。岡崎京子の漫画だともう少し罪悪感を感じるが西村しのぶの登場人物だと本当にナチュラルに犯罪をしていてすごいなと思う。この軽さはどこから来るのだろうか。そして軽さによってしか導けない物語だなとも思う。家でで行きなり南国の島国に飛ぶなんて岡崎京子がpinkで結局海外へ至れなかったのと比べるとその軽やかさに驚く(どちらも良い)
銀河鉄道の夜は未完の小説であるが、残された原稿と章番号をもとに編集者が順番を組んだバージョンがいくつもある。昔、岩井俊二の打ち上げ花火下から見るか、横から見るかのドキュメンタリーの中で今はもうない順番で組まれた銀河鉄道の夜の話が出てきてそんなバージョンがあるのかと驚いたことがある。そのバージョンだとカムパネルラが死んでしまったシーンが冒頭にきて、それを読者が分かった上で銀河鉄道の話が進むという。つまり死者が死者として出てくるというわけだ。今読めるバージョン(最終系、ブルカニロ博士編等々)でもタイタニック号の乗客が乗り込んでくるシーンなどで死を予感させるところはあるが、明らかな死者との邂逅や仄めかしはないため最後の結末までの流れとして時系列順につながっている様に思う。ただ、この繋ぎ方は答えのない状態で編集者が一番無難な繋ぎ方をしている様にも感じる。
始まりの章として"午后の授業"のシーンからこの物語は始まるけれど、
その最初のセリフも"ではみなさん、そういうふうに川と言われたり、乳の流れのあとだと言われたりしていたこのぼんやりと白いものがほんとうは何かご承知ですか。”という先生の問いかけから始まる。この説明もなく始まるいきなり感はすごく印象に残るのだが、のちの話に繋がる説明という意味では冒頭に配置されるのもわかる。それでも例えばこの章を最後に持ってきたとしても話は繋がるのではないかと考えてみる。
カムパネルラがいなくなった銀河鉄道の旅の終わりにこの章が挿入されれば、ジョバンニのそれまでの旅が夢で見た話の様な構造になって授業の途中で現れるカムパネルラに読者は不思議な感覚を覚えるのではないか。
もしくは岩井俊二が読んだバージョンの様に(それがどんな順番であるかわからないが)例えばラストシーンを冒頭に持ってくるとしたらカムパネルラの父親がカムパネルラの死を知らせるところから話は始まり、その後に"午后の授業"につなげば、冒頭は夢か現実かわからない状態で物語が始まり、カムパネルラが銀河鉄道に乗り込んできた時点で死者であり生きている者として遍在した状態になるのではと思う。(あくまで読者の視点であるが)
また、今は採用されていないブルカニロ博士が出てくるラストシーンを冒頭に配置すれば、この物語が夢であることが明かされた状態で物語が始まる。そうするとそもそもカムパネルラはこの世にいない人かもしれないという不安定さが付与されるのではないか。
自分は最初にこの物語を読んだとき"どこまでも一緒にいこう"というジョバンニの問いかけにカンパネルラが応えることなく消える旅の終わりに納得がいかなかった。まだ高校生くらいだったので単に死んでしまった友達との友情の話として読んだので、カムパネルラという人物をひとつの個性を持ったキャラクターとして見ていたので薄情だなと思ったわけだ。大人になって読んだ時、カムパネルラはそもそも存在しない人物なのではないか、という感覚になった。それはブルカニロ博士編の存在を知ったことも多い気がするが、銀河鉄道の旅が博士の実験であって、そこに現れる人物たちはジョバンニの潜在意識が生み出した者で最終的にジョバンニの決意によって物語が終わって人物たちも消える。だからカムパネルラは唯一無二の存在でなく作中のセロの様な声の青年が言う様に"みんながカムパネルラだ"という遍在可能性にシフトする。この思考実験のルートで考えると章の繋ぎ方において友達との別れという感傷性は排除できるのだから順番もより自由になるのではないか。
なんだか色々なパターンを妄想しているがこう言うことを実際にやれる様な、章の順番を切り替えるアプリなんかがあったら面白いだろうなと考えた。