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問と解

冬になるとピチカート・ワン(というか小西康陽のソロワークス)を聴きたくなる。冬の寒さを耳の痛みとして感じながら聴くのが良い。

ムッシュかまやつボーカルのゴンドラの歌とか死ぬほどかっこいい。"飛行機の中で見る短い映画みたい"というフレーズはニュアンスだけで何かが伝わる感覚が素晴らしい。

 

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↓この曲のAメロの無調感の間延びから一気に結句するメロディもよい。ファッションじゃないガチの憂鬱。

 

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乗代雄介の最高の任務を再読。面白い。この人の小説で描かれる地方都市(それもあまり観光名所でない)の描写が好きだ。そこに人がいた、という、ただそれだけを感じる旅。東武伊勢崎線沿線の風景は自分にもなじみが多い。ただ浅草から日光までつながっているりょもう号には乗ったことがないので年末休みに足利辺りに行ってみたいと思った。

休日は床屋に行く。子供のお客さんでお囃子に興味がある子がいて、でも習うところがないというような話を聞く。自分が子供の頃は地元でまだ獅子舞の儀式が残っていて自分も参加していたことを思い出す。あの時の夜の匂いとか、お祭りの日に大人たちと一緒に"何か"に憑依されながら踊る感じはいまだに楽しかった思い出としてある。興味程度ではあるが神楽を調べているのでその子の近場で神楽を行っている神社をいくつか教えた。でも内神楽は神職さんたちの手でまだまだ残っているけど、地元の人たちが口頭伝承する外神楽は都会ではもうほとんど維持は難しいのかもしれない。何のためにするのか、という人間的な効率思考では、夏目漱石がいうような"自然"の感覚で成り立っていたであろう外神楽、獅子舞は維持できないだろう。

 

本屋に寄っていくつか本を購入。夏目漱石の"倫敦塔・幻影の盾"、多和子葉子"百年の散歩"、井戸川射子"この世の喜びよ"、柄谷行人"日本近代文学の起源"。

最近は完全に日本の文学を読みたいモードで、夏目漱石からその先という視点で乗代雄介を読んでなるほどと思うところや、これは何だと思うところが同じくらいあってまた沢山読みたい本ができてくる。

 

井戸川射子"この世の喜びよ"はまだ途中だけど、表題作の人称が"あなた"となっていて誰の視点なのかわからない状態で話が進んでいく様は、とくに分かりにくくはないけれど何か特殊な感覚で面白い。乗代雄介の最高の任務では日記の中に同じ場所を叔母と旅したシーンとその後に一人で旅するシーンが混在して過去の複数の視点が混ざり合って、変わらずに残るものと、いなくなってしまったものが文章の中で接続されて生たり死んだりする。それは主人公"阿佐美景子"の視点ではあるのだが、年齢の差分によって違った視点として重層的に解読される。それに対して井戸川射子"この世の喜びよ"でしようされる"あなた"は言葉の親密さから作者の影は消えていて、おそらく物語に出てくる誰かの視点として想起される。それはこの物語の中ではなくてその後の話かもしれない、その前の話なのかもしれない。その不確かさによって物語自体が回想なのか、予測なのか、現在進行形なのか(だとしてどうやってみるのか)といった複数視点で解読される。同じようでいて、視点自体が安定している(阿佐美景子に固定される)か、誰だかわからないかというところで読者側の立ち位置が物語の内外で断絶する。(当然に阿佐美景子視点であれば内)

曲の歌詞を書いている。歌詞を書くのは早いのだけれどちょっと難航していて、気分転換に東武伊勢崎線に乗って北越谷で降りる。駅近くにある緑道を歩いていろいろ考える。歌詞の中の人称は歌う人の感情に直結しがちであるが、語部として別の全然違う人の物語として書くこともできる。ただ、人称をなくして"なにでもない"状態で何かをかけないものかと人称を探りたいと考える。"受話器"というワードを用いることで話し手、受け手という二つの視点を作り出してそれを混在させることができるのではと思いつく。

猫がいた公園

北越谷の緑道はとてもいい感じで秋っぽい気候も相まって良い気分になる。元荒川沿いに野球グラウンドもあって結構朝の早い時間に行ったのだけれど練習試合の声がしてよかった。歩いた方の川辺には針葉樹が多く生えていて、反対側は紅葉樹が多くあった。自分は国分寺とか三鷹とかの武蔵野の森というか針葉樹の景色になぜか惹かれているのだがその原風景はまだわからない。地元は特に針葉樹が多いわけではない。

昔、ドイツを旅行した時、全く有名でないヴァインハイムという古城の城下町に泊まったことがあってその城下町に隣接する針葉樹林の森が素晴らしかったことを思い出す。何がそんなに自分を捉えるのか。

 

午前中に電車に乗って帰宅。電車の中で昔、おなじく東武伊勢崎線で知らない駅に降りて散歩した時の風景がふと浮かんだが、この知らない駅で降りて散歩をする小旅行をやり過ぎていてどこだったか全然思い出せなかった。家に帰ってGooglemapで調べたり、過去のタイムラインを探ったりしたがわからなかったのだが記憶を辿って繋げていくとふとその前後の道が浮かんで、和戸のある場所だということを急に思い出す。googlemapでその場所の写真を見たら天気が晴れていたことが同じだったからか、本当にその散歩の時と同じ風景が出てきて驚いた。それは何でもない緑道とその木漏れ日の間から見た大きな鉄塔の景色なのだが、その緑道の静かさと鉄塔と木々の遠近感がすごくよかった。Googlemapで俯瞰的に見ると、自分がよくいく東武動物公園駅の東口から幸手市の間にあるビオトープに至る道に、杉戸宿という江戸時代の宿場町の道がきれいに整備されて残っているのだが、記憶にあった和戸の道がその宿場町の道にそのままつながっていることがわかって驚いた。

日光街道に並列するように伸びるその道を辿る旅をやってみたいなと思った。(日光街道についてもちょっとしらべてみたいな) .

 




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