いきなり冬めいてきている。自分は圧倒的に冬が好きなのでテンションが上がる。朝の日課の散歩も寒さが肌を指す感じに当てられていつもより多く歩いてしまう。公園で読書をしるときも寒いけどまだ朝日の暖かさでぎりぎり過ごせてちょうど良い感じ。
引き続き漱石の明暗を読んでいた一週間だった。
次はちょっとあたらめて乗代雄介の小説を読み返したくなってきた。視点の中性性というところを意識して読みたい。
高校くらいの頃にくるりにハマっていた時、くるり関連で再発されていた京都のバンドbad stuffの音源をよく聞いていた。その流れでbad stuffの人が当時やっていたAUXもyoutubeで調べて辿り着いて、レコオドという曲を聞いて衝撃を受けた。この時代で初音ミクをバンドで使うというのもすごいし、ヒップホップ的なビートに蛍の光を合わせていくミックス感にその上に乗っているギターがあくまでファンクとバンド感を残しているのが面白かった。(くるりのたまにやるヒップホップっぽいビートはここからきているのかと思った。Yes,mom I'm so lonleyとか傘とかガロンのカップリング版とか)
高校の頃は地元のレコード屋でAUXのCDは売っていなくてamazonでも売っていなかったのでレコオドという曲だけを聞いていた。この曲がずっと頭にあって、この間初めてアルバムを買ったらこれがやたらよくて驚いた。(Magic Music)
歌詞の中でも出てくるけどATCQを生バンドでやるというのがゼロ年代としては早すぎるし、今聞いても通用する不変さがある。
いつか京都でライブを見てみたいな。
TPボンの流れでエスパー摩美を読み始める。ずっと裏で流れる不安感みたいなものがあって怖い。
青春Hシリーズを続けて見る。青二才、狼の時代、making of loveの3本。青二才はちょっと、、という感じだったが、狼の時代とmaking of loveはかなり良い。
ルックバックの映画が配信されていたのでなんとなく見る。とても良い。遍在の映画であると思った。現代のアニメってここまで動かせるのかというところにも驚いた。動きの質感が少しunreal engineっぽいところもあって効率化と手作業で描きまくるところでメリハリがつけられてるのかなとも思ったり。漫画やゲームでunreal engineは多く使われているがそこで作られた空間をそのまま映画に引用できたら地続きの世界として何かすごいことができるのではと最近少し思っているがもうそういうことは行われていたりするのだろうか。
ルックバックとおなじ創作について書いている"映像研には手を出すな"は自分にとってはあまりしっくりこなかった漫画で、それは何かを純粋に作ることは何においても正しいのだというようなある種の狂信を感じるからだとおもっている。(もしくはアニメをつくるのか漫画を描くのかという作業の孤独さの違いなのかもしれないが。2巻くらいで読むのやめちゃったのであんまり詳しいことはわからないけど)ルックバックはそもそも漫画を書いている、描き続ける理由はほとんど描かれなくて(絵を褒められたというシーンはあるけど漫画ではない)周りの理解もないところで、というか家族とか生活とか将来とかそういったところをどかえしにしてとにかく書くしかないというところだけを動きとして描いてシーンを繋げていく様に惹かれる。この人は映画や漫画の物語の部分ではなく、動きで語れる部分を信じているんだなと。
映像研の方はどちらかというとNHKのジブリのドキュメンタリーとかそっち方面の心地よさだと思う。たとえば"ポニョはこうして生まれた"でも自分は最初の1、2ディスクに入っている宮崎駿が孤独に苦しんで苦しんでなんとか何かをなそうとしているところに見入ってしまっていて、その後にアニメを作っていく作業のところはあまり何も感じない。何かを作るという意味で同じようにも思えるが、ここは結構違うというか、ほとんどの人は何かを作り始めたとき、なぜ書くのか?作るのか?という他人の無自覚の視線や具体的な注意に直面して、そこで明確に理由を語れてしまったらそこまでで、そんなもん知らんと言いつつやり続けてしまうことの怖さと自然さに自分は盲信をしているのだろう。 それは生活という視点では間違いだと思うけど、別の何かの視点では正しい選択である、と思いたい。
バンドをやっていても曲を作っている時は普通に孤独だし、そういった過去の孤独な時間というものを持っていられることをすごく嬉しく思う。高校の時に書いていた曲の書いていた瞬間のことをたまに思い出すことがあるけれど、その時の夏の部屋の感じとか、バンドメンバーに伝わらなかった感じとか、そういったものが偏在していていまの私の生活にふと現れる時は本当にあって、そういうものの積み重ねが、たとえば今も続けていることが、過去に逆流していてあの時の自分の背中を引っ張って振り向かせているような感覚はやはりある。自分にとって自然とはそういう感覚を無くさずに何かを(それは生活でもいい)を続けることなんだと思う。
youtubeでoasisについてくるりの岸田繁とasian kung-fu generationの後藤正文が語る動画が上がっていてなんとなく見る。この世代のバンドの人にここまで影響を与えていたんだなーと結構新鮮な気持ちになる。くるりはほとんどその影響を感じないけどやっぱり聞いていたんだなと。自分世代はもうoasisは出来上がってしまった後の状態だったので何が新しいのか全くわからなかったけど(曲自体は良いとは思ったが)oasis以降に確実にあるあのリヴァーヴ感をともなったロックバンドというのは体に刻まれている。たとえば高校生くらいだった自分にとってニルヴァーナの音は少しダサくて(それもいまでは最高だと思うけど)、それはギター一本でリヴァーヴもほとんどなくてというハードコア、パンクからの流れのグランジというところにうまくフィットできなかったからで、もっというとoasis以降であのリヴァーヴ感のある音像をやっていたバンドたちをはじめに聞き出したからそういうものが初期衝動として刷り込まれているからだと思う。Number Girlにしてもピクシーズと言いながらあのスティーブアルビニ的なギターにゲートリヴァーヴ(残響を作ってぶった斬る感じ)かけてんのかという音像はやっていなくて、フレーミングリップス(デヴィッドフリードマン)の残響感を参考にしているわけだから、残響音の処理だけでもグランジ~oasisでかなりの断絶があるのだと思う。逆にいうとoasisはどこからあの残響を取り入れているのか。そこまでファンではないので自分にはよくわからない。(The Stone Rosesの響きをギター2本でそこまでスキルがない状態でやるには、という苦肉の策なのかもしれないが)