柄谷行人の夏目漱石論を読み切る。最近ミステリやらアメリカ文学を読んでいてもいまいち乗り切れなかったのだが、なんとなくその理由が掴めたような気がした。一番初期の夏目漱石論と新装版で追加された章がとても面白い。
去年、草枕を読んで、その物語と作者の距離感の潔さにとても惹かれて夏目漱石を全部読み返すというのをやっていた。過去の自分の感想を読み返すと、柄谷行人が言うような語り部の中性性について自分も感じているのがわかる。
田山花袋は田舎教師で埼玉の加須市~久喜市あたりの景色を自然主義の小説として書いたが、(そしてその小説は面白くはあるのだが)社会に対しての自然という対比に注視されていて(都会に出る学友と田舎に残って家族のために教師を続ける主人公)そこに共感はない。ので、物語や文の流れの良さとして心地よく読めるのだが、それ以上の何か、というものはなかなか感じられない。
自分が初めて夏目漱石を読んだのは高校時代の国語の授業で出た"こころ"だと思う。高校の授業では抜粋の数章しか読まなかったのでその後図書館で借りて自分で読んだ。
その時の印象は結構今でも残っていて、多分新装版の文庫で真っ白のカバーも相まってすごく簡潔で綺麗な文章を書く人だなと思ったのを覚えている。こういう感じは高校生の時点でも(そして今でも)他の作家で感じたことはないし、その文章からくる印象がなんなのかという疑問はずっと残っていたように思う。
柄谷行人の本では、語り手の中性性だけでなく、夏目漱石がとらえる自然(それは作中でもよくワードとして出てくる)の曖昧さについて語られていてすごく納得がいく。
虞美人草以降の主人公たちの混乱は自然主義的な世の中には答えがあって(それは都会との対比として手付かずで純粋無垢としてある自然に還元される)それを保ったり取り戻すことにこそ美がある、という割と単純な思想ではなく、各個人の中に(外に)それぞれあるなんだかわからないが自分(外からの自分でなく自分自身)となっている自然に従うことで生じている。そのときに語られる自然は、主人公たちもそうだが夏目漱石自身にも語ることはできない領域にあり、だからこそ文章として書くに足りえるものなのかもしれない。そして夏目漱石はその自然を物語の中で結論づけずに (作者としての物語世界の掌握を発動せずに)虞美人草以降ずっと繰り返し繰り返し語ってきた。その諦めてしまうしかないようなテーマに対して、しかし、そのなんだかわからない自然を、作者≠語り手という中性性を維持することで成し遂げている。
"こころ"はKの自殺という展開からある種のわかりやすさもあって読む人も多い気がするが、そこではなくて先生の自殺のわからなさ、そしてそれを先生の視点ではなくほとんど関係がない(海で出会った)青年の語り手によって物語を進めるという構造に自分は美しさを感じたのだろうと思う。
物語の語り手の人称が誰なのか、そしてその人称と書かれる文の組み合わせだけでも物語から得られる感覚は全く違うものになると思う。そういう意味で夏目漱石は人称と文章だけで物語における何かを語ろうとして(そして数作では成し遂げた)人なのだと思った。
倒立する塔の殺人が復刊すると聞いて本棚から探して読んだのだが、上記のようなことを考えていたので流石に人称と文章の至らなさに目がいって読めなかった。

そんなわけで最後の明暗を読み始める。わけわからんくらい面白い。
町屋良平の小説の死後の序文を読んでいて、何を書くか/どう書くか というテーマで現代はどう書くかに注目が行きがちというニュアンスのことを語っていてなるほどと思う。
映画でも、たとえばノーランがやたら高尚なものとして持て囃されたり(テーマではなく演出やその時代の映画的な技術を見るべき監督だと思う)、是枝裕和がやたら社会派(的な)テーマで映画を取りたがったりするのが少し気になっていた。是枝裕和は海街diaryとかは良いなと思って最後まで見れるのだが、誰も知らないとか、最近やってた赤ちゃんブローカーみたいな話は、演出がうまい分テーマとうまく絡み合っていないなと思うことがよくあった(このひとほんとにこのテーマでやりたいのかと)
少し前にブライアン・デ・パルマをいくつか観返して、改めてすごいなと思ったのだが、それはどれだけ内容のない脚本でもデ・パルマの演出やカメラの撮り方によって素晴らしい作品たりえるのだという態度に感服するからだ。アンタッチャブルとかミッドナイトクロスなんかは脚本(何を語るか)という視点で見るとまるでなんでもない話で(よく考えるとつっこみどころしかない)、それでも映画として見るとめちゃくちゃ面白い。
タランティーノが90年代に出てきてやったことはデ・パルマ的な、何もない話をどう語るかで映画にしてやろうということだけだったのだと思う(サンプリング的な)
(タランティーノのオールタイムベストにキャリーとかミッドナイトクロスが入ってた記憶)
そんなことを考えていたら日本の青春Hシリーズの映画をまた見たくなっていくつか見る。DVDで買い集めようとしてまだ全然全部手に入っていないのだが、最初のきっかけとして鎮西尚一監督のring my bellがあまりに素晴らしくて他の映画も掘っていたことがあった。
若きロッテちゃんの悩み、ふたりのシーズン、再会、を観直す。どれも素晴らしいし、とくにロケーションが良い。都内でなく埼玉か茨城か横浜の郊外の方か、そういった高い建物がなくて家家の隙間に木々が残っている感じ、そして川やダムやコンビニや安宿といったロケーションで撮られる物語というものに無性に見入ってしまうタチなのでたまらない。(同じ理由で山下敦弘映画も最高)
青春Hシリーズも何を語るか、ではなく、どう語るかで映画を撮る監督が多い印象で、再会の長回しで人物が入れ替わっている仕掛けとか、若きロッテちゃんの悩みのドライブシーンの美しさとかそういった細部を見ているだけで幸せな気持ちになる。
なんかネットフリックスでTP本のアニメをやっているらしくその流れ?で新装版が出てたので買って読んでいる。藤子・F・不二雄はドラえもんかマニア的にはSF短編集が傑作みたいなノリしかないけどTP本はそれらと比べるまでもなく傑作だと思う。ただ、何がこんなにすごいと思えるのか言語化できないというか、割とベタに物語の初めで前振りをしてその時点でなんとなくオチが予測できるような流れではあるのだが、かなり編集的に物語の時間が逆流したり、結末が前振りと少し違うところに着地したりと、なんだか頭の中でも次元の混乱を起こされているような感覚になる。
まだ読んだことがないエスパー摩美とかも年末あたりに読みたいなと考えたりする。