保坂和幸の遠い触覚を読む。デヴィッドリンチの映画について語りつつフィクションが立ち現れる感覚についてのエッセイ。とても面白くてなかなか理解できなくて何度も反芻してゆっくり読む。
それで、本の中で中心として描かれるリンチのインランドエンパイアも観る。この映画だけはなんだか大変そうだなという印象で一度も見ていなかったが、本を読んだことでそのめんどくささも含めて楽しく見る。というか全てのシーンで興奮しっぱなしで、特に謎のモーテルからいつの間にか少女たちがいる空間につながるあたりのシークエンスがすごくて興奮する。

自分がフィクションの中で興奮するのはこういうシーンなんだなと改めて認識する。そのわからなさとかストーリーや時系列の解読ではなく、リンチが何かを起こそうとしていて、そのシーンを撮ったこと自体、その時間や作り出すこと、作り出せなかったこと、それらを含めて感動する。(なんだか保坂和幸みたいな文だが)
自分の中には、原風景というかずっと残っている景色がいくつかあって。
地元のその辺の景色や木々の角度の感じとか、学校の廊下の匂いとか直線の感じ、少し汚れた窓ガラス越しに見る景色とか。そういった文にすると全く伝わらない自分だけの感覚がいくつかあってそれらを何かに表したいと思ってはいるのだが、それはほとんど無理で、ただ曲のあるフレーズとかある歌詞に一瞬だけ立ち現れたりする。そういったものができると自分としてはもう満足なので、バンドのメンバーにはなかなか説明も難しいのだが、たとえばそういった瞬間がメンバー側にもあったりしたら面白いし、そういうものが起こりうる可能性があるというのがバンドのわからなさ/楽しさなのかもしれない。
ある時期のナンバーガールを聞くとほんとに最強で、これ以上ないと思うのだけれど、それは若さとか勢いだけでなく、それぞれのメンバーがそれぞれに何かを掴んでいてそれは共有されていないのだけれど噛み合っている。そういう状態は再結成ではほとんど見られなかったけれど(一度だけライブも見れて、すっごい良かったが、最強だとまではいかなかった)それも再結成のラストライブの最後になるにつれてほんの少しだけ戻ってきた感覚があって良かったのを覚えている。(映画館でラストライブを見たがあれ以来見ていない)
だからあの最強な感覚というものはナンバーガールの解散とは関係なく常にどこかに偏在していていつか誰か(それはナンバーガールでなくたっていい)につながるという確信が持てた。
近所の本屋でコクヨが出してるworksightという雑誌を買う。鳥類学特集。
自分の生活圏内に最近鳥が近しい存在としてあり、特に先日青鷺がカエルを丸呑みにするシーンを目撃してしまってなんだかショックを受けたので気になって買っていた。
雑誌の中で鳥に関する本の紹介があったので他にも読んでみたいと思う。
スティーブンギルの写真に関するインタビューが載っていて面白く読む。
定点カメラで撮られる鳥たちは撮影者の自己を離れているようでただしそこにカメラを置くという選択によって写真として成立する様はフィクションとドキュメンタリーの狭間のようで不安定な面白さがある。
そういえば地元には小学生が近所の燕の巣の場所を記録するツバメ調査というイベントがあってすごく面白かったのを覚えている。本当に普通の家の車庫とか玄関に巣を作っているツバメたちを街の中から探し出して記録するというのはこれまであった街の地図が別の層で書き換えられる感覚で(よくいえば燕の視点で、正確にいえばツバメを探す小学生の視点で)
だから、大人になった今でもあの家には過去に燕の巣があったといった見方で地元の街を見ることがある。
週末にサッと雨が降って気づいたら雨が上がっていた。
ちょうどいいやと思って深夜だったが散歩に出てみた。雨上がりで夜なので人もいなくて
木々も水に濡れて密林のようだった。木々の下を通ると水が滴る。レインツリーを思い出す。
木々の隙間で眠る鳥たちのことを考える。そして今週の英語の授業で散歩についての講義のことを思い出す。散歩をすることは、ある種の拘束性があって作業を中断して頭だけで何かを考える時間になる。そしてある地点から別の地点へと移動するその制約から、いくつかの考えを遂行する。つまり実行に移す前にある考えをボツにしたり、考えと考えを折衷したりする。そういった行為の中で景色や記憶が影響してなんだかよくわからないアイディアが思いついたりするというのはとてもよくわかる感覚だ。
深夜の散歩道は鳥という媒介者を経由して小学生の自分の体を目線を思い出す。
昔、自分は、木々の中の鳥を想像して畏れつつも楽しんでいたのだ。それはヒッチコックの鳥を見たことで一旦ストーリー化されたがその根源にあった怖さ、わからなさは実はいまだに解決されていはいのだと思い知った。そこにまだフィクションの可能性がある。