いつもなら朝に散歩がてら公園に行ってそこで読書をするのだが暑すぎて散歩以上のことはできない。ホセドノソの閉ざされた扉は家のベランダで読み切った、それでも暑いけど。
表題作は多分別のアンソロジーで読んでいて記憶にあったが他の短編は初めてでどれも凄い。何か表立って怖いことが起こっているわけではないが現象としての不気味さよりも何かが少し違うという居心地の悪さの方が怖いこともある。ジャックフィニィの盗まれた街とかだと最終的にその違和感はSF的に解消されるがホセドノソの場合は結局なんだったのというところで終わるのでその怖さが現実に侵食してくる。マジックリアリズムというよりかは小説のインクの黒墨が空気中を漂って人間の肺に入り込み、拡散していくような不気味さ。
夜のみだらな鳥も数年ぶりに読もうと購入。流石に高いけど福利厚生でAmazonポイント数万円分もらえたのでそれで買う。
平日に紅の豚を見る。動きが楽しくて、それでいてそう書くのかといったカットも多くてそういう部分に感動する。飛行機が画面奥に進んで飛ぶシーンで少しずつカメラの角度が低くなっていくのに対して飛行機の浮遊感が失われずに最後は地平線へと向かう流れは実写ではできない頭の中の妄想力の賜物だなと思った(そもそもこれを考えつくこと自体がすごいが)
例えばアンリアルエンジンなどを使って擬似的に世界を作ってそこからカットを作っていく映画も増えてきたが、そのやり方だとプログラムとして現実世界であり得るとされた状態でのカットしか作れないのでは?と思った。ありえないけど、あり得るように見えてしまうという(騙し絵的な)そういった凄みのあるカットを作るにはもっと天才的なシステムの使い方が必要なのかもしれない(そもそもカットを想定してありえない構造の世界をシステム上で作るとか)
話ととしては結構軽く作った感じだが、飛行機を作るシーンやキャラの配置などは意外と風立ちぬの前哨戦といった感じ。続編を作りたかったとどこかで読んだが、確かに最後は適当すぎる気はする(そもそも物語があってないようなものだが)それでも動きを見る、というだけで90分間きちんと引き付けられてこの人は動かしてなんぼの人なんだなと改めて思う。ここからもののけ姫に行って引退宣言というのもその動きを維持できないところまで行ったということなのだろうか。
土曜はバンド練。朝一で練習なので声が出るか心配だったが結構行けた。朝の神保町は多分初めて来たけど人も少なくてゴミもないのでいい気持ちでスタジオへ入れた。曲のキーを変えたりアレンジを各自いじってきていたのでその調整。もうステージさえあればどこでもやれるくらいには仕上がっている。
ベースがペダルに連動できるオクターバーを買ってて笑ったが、曲間のインプロで結構いい感じの環境音を出せてライブ仕様に仕上がってきている。
隅田の花火大会の日なのでそのまま帰宅。錦糸町でドラムと飯を食う。冷やし鶏ラーメン。うまい。錦糸町は中華が安くて美味いので助かる。南口の中華屋の餃子も美味いので夏にまた行きたい。その流れでドラムの奥さんと子供が花火を見るとのことで自分の家に誘う(家から花火が全部見える立地なので)
夜はビールを飲みながらフジロックを見て花火を見て友達の子供と遊ぶ。数年前には考えられなかった感じ。子供はフジロックのくるりに反応していた。そちら側の人間になるなら修羅の道だ。
西村しのぶのサードガールを読み切るが文庫本だと途中で終わっちゃう感じで完全版を買うか迷う。ただ、どちらかというと続き物というより一話完結として読んでいたのでまあ満足かな。1巻あたりは本当に一話一発勝負みたいな感じでそのうまさが際立っていたが後半で段々と人物が動き出すと普通の漫画に収束していったように思う(それでも画面の作り方や話の見せ方は物凄いが)
ストーリーを作るというのが悪いわけではないが、自分は天然コケッコーのほとんど何も起こっていない状況においても人物の性格やその人の考えがふとわかる(描かれる)瞬間を知っているのでそういったものを求めてしまうのかもしれない。物語に全て語らせてしまうとそれは作者がただ書いているだけであるが、天然コケッコーの場合は作者のくらもちふさこ自体もキャラのセリフをいちいち発見していったようなそんな鮮度を感じる。
来週は帰省するのでちょっと地方のハードオフをめぐって楽器をいくつくか買いたいと思っている。