以下の内容はhttps://bythebeachs.hatenablog.com/entry/2024/05/26/203412より取得しました。


インディヴィジュアル・サイン

 

木曜日にいつもの公園を歩いていたらマドレーヌの冒険の矢印を見かけたので金曜の昼休みと土曜の朝を利用して矢印を辿っていた。(多分、元ネタのビールイベントの方を誰かがやった後だとは思うが)自分としては、知らない人の散歩コースを辿るような気持ちで歩けてとても楽しかった。

矢印を辿っていくと最短でない(最適でない)道に連れて行かれて長年住んでいても一度も歩いたことがない裏道を知れたり、知らない団地に巡り合ったりできた。チョークで矢印を書くという性質上、矢印が消えるリスクの低い人通りの多い道は避けて公園と公園をつなぐようにルートが作られていた。

誰かが書いたサインが、別の誰かによって紐解かれる時、書いた瞬間の時間と、歩いた人の時間が微妙にずれて重複する。ヴァルターベンヤミンが説いたように、伝えるということは、何かを通じて、ではなく、何かそのものとして伝えるしかない。そういう意味で矢印を辿るという伝え方は、地図ではない、先がわからないという意味で書いたものと、辿ったものの感覚が"そのもの"に近くなるように思った。

景色は見つめる、振り返るという2つの視点でもってもその性質は変わるので、行き/帰りで同じコースを巡ってもそこに至る感覚は別のものになる。好きな道というのは行きの場合と帰りの場合で一致はしない。だから、街はいつでも裏返るし、そのコードを正確に反復することができる人は少ない。

矢印を辿る時、コードは提示され、その瞬間に書いた人と辿る人の時間は平等に偏在する。書くものが神なのではなく、コードを伝えることで辿るものが書くものに至れるということだ。

歩きながら自分は矢印を描いた人のことは忘れた。自分のことを考えていた。明日のことや昔のことを思っていた。矢印は円環構造になっているので最後はスタートに戻る。

そこから反対側に歩いたっていいのだ。振り返ることは過去をノスタルジーに思いだすことではなく、またそこへ至るために歩くということなのかも知れないと、考えていた。




以上の内容はhttps://bythebeachs.hatenablog.com/entry/2024/05/26/203412より取得しました。
このページはhttp://font.textar.tv/のウェブフォントを使用してます

不具合報告/要望等はこちらへお願いします。
モバイルやる夫Viewer Ver0.14