本屋で"サバービアの憂鬱"が復刊していたのを見かけたので購入。
ついでに郊外つながりで堀江敏幸の"郊外へ"も一緒に買う。
雨の合間に本屋へ pic.twitter.com/LGg1knqXaR
— Akira.Ikeguchi (@outtakesrecords) 2023年3月25日
郊外、フロンティア、サバービアというテーマを意識したのはアメリカ文学を読むようになってからだが、"サバービアの憂鬱"で語られるアメリカの郊外と"郊外へ"で描かれるパリの郊外はその構造が少し違うように感じた。
アメリカの郊外には歴史の気配は気薄でニューフロンティアと呼ぶにふさわしい、新しい街というイメージが強い。対してパリ城壁外、その縁に位置する郊外は、パリ中心部(城壁内)が持つ歴史との距離によって相対的に浮かび上がるまがい物の陰鬱さ(あるいは、それが反転した面白さ)のイメージだろうか。
アメリカ文学を意識して読もうと思ったきっかけはスチュアートダイベックのシカゴ育ちを読んでからだが、あの本は郊外というよりはシカゴという中心街の話であり、イメージとしてはパリの郊外に近いように思う。そのあと、レイモンドカーヴァーとかジョンアップダイクを読むようになって、アメリカ映画でよく見る芝生のある区画整理された綺麗な郊外(サバービア)のイメージがうまくつかめた気がする。全く自分の実人生とは関わりがないが、確かにああいった場所にある種の詩情を感じる要素が自分の中にもある。
区画整理された家々はその類似性から固有性が欠如していくが、その内部では固有性を持った物語が人知れず進行して行く。映画のカメラや小説の視点はそういった内部へ向けて侵入していき、何かを暴くわけではなく淡々と定点観測を行うだけではたして詩情を感じる物語となる。
代替え可能であるというある種の渇きと、芝生や緑の多い郊外の自然の対比の気持ち良さは日本小説ではあまり感じられない部分でありそういったところが読みたくてアメリカ文学をいろいろ読んでいたように思う。(村上春樹あたりはそういった渇きを描こうとしている気はするが、日本が舞台である時それはあまりうまく機能していないように思う。レキシントンの幽霊とか海外が舞台のものをもっと書いたらどうなるだろうとちょっと思う)
郊外が舞台となると、衝撃的な事件ではなく、必然的に見る、歩くといった簡潔な行為が主題となることが多いように思う。
街を見る人々の視点と家々の内部からそれを観察する視点が交差する箇所に詩情が生まれる。
レイモンドカーヴァーの小説の中に"ダンスしないか"という素晴らしい短編があるが、
妻に逃げられた男が家の中にある家具を全て庭の芝生に持ち出して、そこでレコードをかけて、たまたま通りがかったカップルとダンスをする。そういった話で、歴史のなさからくる人間関係の渇き(カップルと男は深入りせず、ただダンスを踊ったり家具をゆずってもらったりするだけだ)と固有性の見えない家々の内部から取り出された家具たちが陽に照らされているイメージの美しさが鮮烈に頭に残る。
日本での郊外のイメージというものについても少し考えたが、
アメリカに似ているようでまた少し違っている気もする。
完全に歴史がないわけではなく、きちんとした村の上に上書きされるように新興住宅地ができているところもある。山を切り開いて作った団地も、アメリカと違いその周辺には同じ日本人が住んでいるわけで歴史と乖離することはできない。(実際、我孫子、佐倉等によく行くが歴史博物館があったり住宅街の途切れるところに田んぼや農村があったりする)
日本では土地の狭さから上書きするといったイメージが強いので
もしかしたら明確なフロンティアラインといった線を掴みづらいのかも知れない。
千葉でいうと習志野と佐倉の境目あたりから田んぼが増えて、自分としてはそのあたりから郊外を感じるが、いわゆるロードサイド(ブックオフとかチェーン店が並ぶあの感じ)という意味ではもう少し東京よりの地域も含まれるように思う。
また、武蔵野側の地域を見ると上書きされずに残った自然が都会の中に点々としていて、散歩をするとその多層性に驚く。武蔵野市の野川公園〜天文台〜三鷹駅南側のロードサイドと辿って行くと自然と郊外の境目が交互に現れて混乱する。
自分は電車で遠出をして郊外/フロンティアの感覚をよく味わっていたが、もしかしたら都会の中でも味わえるのではないかと思ったりもした。今住んでいる浅草周辺は埋立地の性質上、多層的になりえないが月島や目黒あたりは面白そうでちょっと散歩してみたいなと思ったりしている。(引っ越し先もそろそろさがさないとなので)