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国公立私立大学世界史直前チェック(アフリカ3 19世紀)

はじめに

 最近入試で頻出のアフリカ史について先史から21世紀まで復習します。第3回は19世紀の奴隷貿易の廃止からいわゆる「アフリカ分割」までの時代です。

 参考図書は第1回を参照してください。世界史探究の教科書と講談社現代新書『新書アフリカ史』をもとにしています。入試を意識しているので、細かい話は参考程度にとどめます。

前回

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目次

7 19世紀前半のアフリカ

(1)奴隷制廃止運動

1787年 イギリスで奴隷貿易廃止協会(ロンドン委員会)結成

 (1      )などクエーカーや福音派の議員が奴隷制度廃止を訴える

・1807年 イギリス、奴隷貿易を廃止

1833年 イギリス、植民地での奴隷制廃止

 艦隊を派遣して奴隷貿易の取り締まり シエラレオネは解放奴隷の入植地に

・(2      )…1847年に独立

 19世紀前半にアメリカ植民協会が黒人解放奴隷の「アフリカ帰還」を計画

・各国の奴隷貿易奴隷制廃止時期

奴隷貿易廃止 奴隷制廃止
1787 英で奴隷貿易廃止協会結成 1833 イギリス植民地
1803 デンマーク 1848 フランス植民地
1807 イギリス (3     ) アメリカ合衆国
1808 アメリカ合衆国 1886 キューバ
1814 オランダ 1888 (4     )
1817 スペイン
ポルトガル
   
1818 フランス    

(2)ヨーロッパ人の進出

・ケープ植民地

 17世紀にオランダ人が入植。(5   )人(アフリカーナ―)

 輸入した奴隷を使用して農耕や牧畜

・1815年(6   )議定書…イギリスがオランダからケープ植民地を獲得

 アフリカーナ―は北部へ移住を開始(グレート・トレック)

 北部に(7     )共和国・南部に(8    )自由国を建国

 現地ズールー人を圧迫

(3)アフリカ各地域

・エジプト:1805年に(9       )が総督に就任

 在地のマムルーク勢力を一掃 軍事・税制・財政の西欧化

 2度にわたるエジプト=トルコ戦争でエジプト総督権を世襲

 綿花の生産でヨーロッパ市場に組み込まれる

・19世紀半ば,分裂状態だったエチオピア高原を(10     )帝国が統一

オマーン:19世紀前半、サイイド・サイードの時最盛期

 東アフリカ沿岸をオマーン支配地に組み入れる ザンジバルに遷都

 インド人(ヒンドゥー教徒)を徴税請負人に利用

奴隷貿易は人道に反する?

 18世紀のヨーロッパはいわゆる「啓蒙の世紀」で、市民革命の理論的支柱を準備し、科学も発展します。一方この世紀は奴隷貿易の最盛期でもあり、コーヒーハウスで市民たちは奴隷が作った砂糖入りのコーヒー片手に自由について議論していました。

 自由と政治的平等を享受する「市民」から奴隷は排除され、(似非)科学で黒人を「劣等な人種」と決めつけて奴隷貿易を正当化する、というのが「啓蒙の世紀」の裏(あるいは表)の顔でした。

 「進歩のヨーロッパ」と「未開のアフリカ」という啓蒙主義的な対比の集大成がヘーゲルです。彼は『歴史哲学講義』の中で「アフリカは歴史がない」と切り捨てます。

 黒人は自然のままの、まったく野蛮で奔放な人間です。彼らを正確にとらえようと思えば、あらゆる畏敬の念や共同精神や心情的なものをすてさらねばならない。かれらの性格のうちには、人間の心にひびくものがないのです。

中略

 こうした状態にある黒人は、発展することもなければ文化形成することもなく、過去のこの時点にとってもいまとかわらない。過去から現在にかけての黒人とヨーロッパ人の唯一の実質的なつながりは、奴隷売買というかたちのつながりなのです。黒人は奴隷制度を不都合なものと思ってないので、奴隷売買と奴隷制度の廃止に最大限の力をかたむけるイギリス人が、黒人から敵としてあつかわれるしまつです。

中略

  これをもってアフリカに別れを告げ、以後はもう話題にすることをやめにします。アフリカは世界史に属する地域ではなく、運動も発展も見られないからです。本来の意味でのアフリカは、歴史を欠いた閉鎖的な世界であって、いまだまったく自然状態のままの精神にとらわれ、世界史の敷居のところにおいておくほかないのです。

参考

 ウィリアム・ホガース『当世風結婚』4。1743~45年。パブリックドメイン。ホガースの絵は寓意を含むので額面通り受け取れませんが、研究によると当時イギリスで黒人が下僕、馬車の御者、給仕などで働いていたようです(『奴隷船の世界史』より)。

 ところが18世紀末からイギリスで奴隷に対する考えが変わり始めます。

 まず逃亡した購入奴隷を購入者が拘束したことに端を発し、イングランドで奴隷に関して裁判で争われました(奴隷制が認められないなら拘束は違法だが主人と奴隷が召使の契約とみなすなら拘束は合法)。

 次に奴隷船で疫病が流行し、船長が「積み荷」の奴隷を生きたまま海に投げ込み保険金を請求する(自然死だと船主の損失になるが「事故」だと保険が下りる)という2時間サスペンスもびっくりな事件が起きます。(# ゚Д゚)

 裁判の結果保険金の支払いは認められず、衆目が奴隷貿易の非人道性を知ることになりました。

 イギリスロマン派の画家として知られるターナーが後にこの「ゾング号事件」を題材に『奴隷船』を制作しました。パブリックドメイン

 こうした世論の変化を背景に、1780年代にウィルバーフォースらがキリスト教道徳心から議会で奴隷貿易の廃止を主張しました。同じころフランスではサン・ドマングの奴隷反乱を受けて1794年に国民公会が黒人奴隷制廃止を決議しました。

 奴隷制反対運動は奴隷商人の反対にあいましたが、ナポレオンが1802年奴隷貿易を再開した辺りから潮目が変わり(1804年にハイチ独立)、1807年にイギリス議会は本国とアフリカ・西インド諸島間で行われていた奴隷貿易を禁止しました。

映画

 奴隷貿易廃止運動の背景については諸説あります。外的要因としては輸入品の志向が奴隷から一次産品(後述)に変化したこと、イギリスはジャマイカでサトウキビプランテーションを展開していましたが、サン・ドマングキューバ、ブラジルとの競争にさらされ、奴隷の反乱も頻発し、奴隷貿易が割に合わなくなった点を指摘する研究もあります。

 内的要因としてはクエーカー、福音派、メソジストなどの国教徒、非国教徒の奴隷制反対運動が挙げられます。ただしウィルバーフォースの手紙を見ると、彼らは奴隷を対等な人間とみなしているのではなく「パターナリズム」(目上が目下に与える保護・愛情の発露で、上流階級の社会的地位を保障する)に思えます。

今朝、哀れなアフリカ人によって書かれた小冊子を読んでいるとき、白人によって不正を働かれ辱めを受けている黒い肌を持つ人間は、いかなる救済手段も持ちえないという状況に、わたしは打ちのめされました。植民地において、黒人の白人に対する誓約は何にもならないという「法」があるからです。一体この非道は何なのでしょうか?

参考

https://wesley-methodism.com/pdf/gakkai2012/gakkai2012d.pdf

kenkyu.hino.meisei-u.ac.jp

過去ログも見てね!

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シエラレオネは解放奴隷の「自由の街」?

 2025年共通テスト「歴史総合、世界史探究」追試で奴隷貿易廃止後も奴隷制度は存続したことに関する設問がありました。

問題はこちら

https://www.dnc.ac.jp/kyotsu/kakomondai/r7/

 奴隷貿易廃止運動の指導者がアフリカに解放された奴隷の定住地を作ることを計画し、1787年に最初の移住者をシエラレオネ半島に送り出しました。こうした解放奴隷の入植地は「フリータウン」と呼ばれました。

 1807年に奴隷貿易が廃止されると、1808年に入植地はイギリスの直轄植民地となり、同時に奴隷貿易を取り締まる艦隊の基地となりました。資料中に「奴隷船を拿捕する」とあるのがこれです。

 ヨーロッパが奴隷貿易の取り締まりを強化した後も東海岸では奴隷貿易が続いていましたが、次第に奴隷の価値が低下して、輸出できなくなった奴隷を使ってクローブ(丁子)やゴムのプランテーションを経営したり、象牙の輸出にシフトしました。

 西海岸ではパームオイルや落花生が産業革命時代の機械の潤滑油、石鹸やロウソク、19世紀末にはマーガリンの原料として人気商品になります。

 このように奴隷貿易廃止後、ヨーロッパ人の関心は沿岸部から内陸部に移り、リヴィングストンに代表される探検家がアフリカ奥地を目指すようになります。

 つまり「輸出商品」としての奴隷制度は廃止されたものの、一次産品の生産のために現地国家では奴隷的な労働が存続します。Eテレ『高校講座世界史』で寺田ちひろ♡が「まだまだ苦しい時代が続きます」と顔を曇らせます。

1880年代のマーガリン。虎が描かれています。グルグル回ってマーガリンに?パブリックドメイン

探究的つぶやき

 「かわいそうだから助ける」は啓蒙主義の「アフリカ=未開」の焼き直しです。この後ヨーロッパは「未開のアフリカを文明化するのはわれらの使命!」とキリスト教と科学片手にアフリカ内部へ踏み込んできます。傲慢です。(# ゚Д゚)

③解放奴隷の国リベリアの闇

 1822年にアメリカ植民協会が解放奴隷と奴隷船から救出した奴隷を大西洋岸の港町モンロビアモンロー大統領にちなむ)に入植させて以後、アメリカ合衆国から移住した元奴隷の数は2万人を数えました。彼らは1847年にシエラレオネの東にリベリア共和国を建設しました。

啓隆社ご提供

 解放奴隷はキリスト教を信じ、英語を話し、アメリカ風の生活スタイルを身に着けていました。彼らは混血入植者を支持基盤とする派閥と、黒人入植者を支持基盤とする派閥に分かれて現地の利権を奪い合いました。

 しかし現地人からすれば彼らはどちらも植民地支配者、植民者は原住民を差別し圧政を敷いたので現地人はたびたび武装蜂起を起こし、1910年に発生した大規模な反乱はアメリカ軍の支援を受けてようやく鎮圧しました。

 リベリアは独立を保つものの隣接する英仏に領土を侵食され、それに対抗するためにアメリカ合衆国の支援を受けました。アメリカのタイヤ企業にゴム園の森林を貸し与え、アメリカとの間に防衛条約を結んで軍事基地を提供しました。

 この少数派支配に対して現地人の不満が爆発し、それを背景に1980年に軍がクーデタをおこし、1989年から断続的に内戦が発生、20万人ともいわれる死者を出しました。

 第二次リベリア内戦では国連平和維持軍が介入、暫定統治下の選挙で2006年にエレン・ジョンソン・サーリーフが大統領に選ばれ(選挙で選ばれたアフリカ初の女性大統領)、国家の再建が進んでいます。

 アメリカの公務員が撮影したのでパブリックドメイン

探究的つぶやき

 少数派の移民が多数派の現地人を抑圧するのは南アフリカ共和国と同じ構造です。ゴムプランテーションの労働が「奴隷労働だ」と国際連盟から指摘されたり、世界恐慌で破綻寸前に陥り、モノカルチャーの利権をめぐって内戦が発生と、リベリアはアフリカの困難の縮図のようです。

空欄

1ウィルバーフォース 2リベリア 31865 4ブラジル 5ブール 6ウィーン 7トランスヴァール 8オレンジ 9ムハンマド=アリー 10エチオピア

8 アフリカ分割

(1)契機

①19世紀後半,イギリス人宣教師の(1     )がアフリカ探検

アメリカ人記者(2     )ら(7)の捜索でアフリカ内陸部を探検

・ベルギー王(3     )がコンゴを植民地化 コンゴ国際協会の管理

②1884~85年 (4     )・コンゴ会議

・ドイツの(5      )が調停

・ベルギー王の私有領として「(6    )自由国」を承認する

・先占権、(7    )支配の原則、沿岸部を占領すれば内陸支配も認める

(2)ヨーロッパ諸国のアフリカ分割

①フランス…横断政策。西アフリカと(8    )・マダガスカルと結ぶ

第三共和政国威発揚と結びつく。セネガルでは同化政策

・19世紀末、西アフリカでサモリ=トゥーレが抵抗するが敗北

②イギリス…縦断政策、3C(ケープタウン・カイロ・カルカッタ)政策

・エジプト:1875年にディズレーリがエジプトから(9    )運河株を買収

→(10     )運動…「エジプト人のためのエジプト」 

スーダン:19世紀末にムハンマド=アフマド率いる(11     )派の抵抗

ゴードンが戦死。グラッドストンが派兵して鎮圧

・(12     )事件(1898)…英仏がハルツーム付近で衝突

→フランスが譲歩 1904年に(13    )協商を締結

南アフリカ:19世紀後半に南アフリカでダイヤモンドや金が発見される

・ケープ植民地首相(14       )はローデシアを建設

・1899~1902 南アフリカ戦争(ブール戦争)

 イギリス本国植民地相(15          )が指導

 トランスヴァール、オレンジ両国を併合

・1910年,イギリスは自治領(16       )を形成

・少数の白人が大多数の黒人を支配するための人種差別政策が採られる

→20世紀半ばに法制度化される…(17        )政策 

③ドイツ

・東アフリカ・南西アフリカ・(18     )を植民地化

・南西アフリカ(現ナミビア)で現地(19     )人を徹底弾圧

④イタリア

1880年代にソマリランドエリトリアを獲得

・1896年の(20     )の戦い。エチオピアメネリク2世に敗北

・1912年にイタリア=トルコ戦争でリビアトリポリキレナイカ)を獲得

ポルトガル

・南西部の(21    )、南東部の(22    )を植民地化

地図 A~Fは列強の勢力範囲 啓隆社さんご提供

A ベルギー B イギリス C フランス D イタリア E ドイツ

F ポルトガル X ファショダ

リヴィングストンからベルリン・コンゴ会議の話はこちら

bunbunshinrosaijki.hatenablog.com

①「アフリカ分割の地図」はよろしくない?

 高校世界史教科書でおなじみのアフリカ分割の地図には批判があります(以下『講座岩波世界歴史18』)。色が塗られている地域が一気に植民地化されたわけではなく、特に沿岸部と内陸部では住民の「植民地体験」の時期と内容が違うとのことです。

 各国の統治方法も、特許会社や植民地政府の直接支配、現地の支配層・支配機構をそのまま利用して間接統治、住民に対しても同化を強要することもあれば(フランスのセネガル植民地)「未開」のまま放置のところもありました。

 とはいえヨーロッパ人は基本現地人に「契約」を押し付けて土地の権利を取り上げ、抵抗するものは火力(最新鋭のガトリング砲が威力を発揮)で虐殺、マラリアの特効薬キニーネの発見はアフリカ内部の侵略を後押ししました。

1865 年製イギリス製ガトリング砲。王立砲兵博物館蔵。パブリックドメイン

 各国は支配地域で住民から税を取り立て(ベルギーが先住民に自生するゴムを強制労働で採取させたのは有名)、鉱山やプランテーションで現地人を強制労働させ、一次産品は鉄道で港へ運ばれました。

 ダカールニジェール鉄道、1889年カイ駅着工の様子。最近ネットで「日本が所持区民地に鉄道をつけてやったんだから感謝しろ」みたいな言説を見かけますが、鉄道建設は植民地支配の方策です。パブリックドメイン

 コンゴには手首を切り落とされた先住民が多数いました。その裏には過酷な植民地支配がありました。((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル

②抵抗運動

 ヨーロッパ列強の武力の前に、アフリカ人支配層は彼らに主権を差し出し協力者になるか、主権を守るために戦うかを迫られました。

 19世紀末のヨーロッパの侵略に対する抵抗として教科書で取り上げられることが多いのはイスラームの抵抗です。

 西アフリカでは18世紀からイスラーム化した遊牧民(フルベ)が抵抗運動を展開していましたが19世紀半ばに拡大、西アフリカを席巻しますが、普仏戦争後にアフリカの植民地化を進めたフランスが鎮圧しました。

 そのころギニアでもイスラーム国家建設が散発的に始まり、そこで台頭したのがサモリ・トゥーレです。商人出身のサモリは鉄砲隊を組織して、1801年にニジェール川上流右岸地域に支配権を確立、50歳でイスラームを学んで「イマーム」を称します。しかしフランスが進出、サモリは英仏軍に挟撃され降伏しました。

 パブリックドメイン

 同じころスーダンではムハンマド=アフマドが「マフディー」を称します。翌年エジプトでウラービー運動が発生、マフディー軍もスーダン全土に勢力を広げ、1885年にハルツームでイギリス軍のゴードンを死に至らしめます。

 またスーダンダルフール総督がチャドに入ってボルヌ帝国を征服、強力な鉄砲隊を編成してフランスと壮絶な戦いを繰り広げます。

 アフリカ諸国が独立して民族主義が高まると、抵抗した人は英雄、協力した人は裏切り者にみなされがちですが、最近の研究では時には協力し、時には武器を取って一戦交えるなど、当時の支配層は主権を守るためにその時々にオプションを選択した、と考えられています。

 実際に「フルベ国家」の多くはヨーロッパ列強に降伏しますが、その後も間接統治を受けながら存続します。フルベの末裔であるアフリカのイスラーム知識人は、現在では植民地化以前のアフリカ文化の復元に尽力しているとのことです。

 他にアフリカの抵抗運動としては、ケニアの牧畜民が伝統的な地域集団のもとでゲリラ戦を展開してイギリス軍を悩ませました。

 タンザニアではドイツ人の原綿の強制栽培や強制労働に対して霊媒師が「薬用の水(マジ)を飲めば撃たれても死なない」と抵抗を呼びかけました(マジ・マジ戦争)。ドイツはこれを徹底的に弾圧しましたが、植民地経営の変更を迫られました。

 またヨーロッパ人が支配のために持ち込んだキリスト教教会から独立した黒人教会がアフリカの伝統的な信仰を取り込み、第一次世界大戦後には西アフリカで抵抗運動を繰り広げました。

 我々からするとオカルト的にも見える信仰と結びついた抵抗運動は21世紀のアフリカにも受け継がれているそうです(この項『新書アフリカ史』より)。

空欄

1リヴィングストン 2スタンリー 3レオポルド 4ベルリン 5ビスマルク 6コンゴ 7実効 8ジブチ 9スエズ 10ウラービー 11マフディー 12ファショダ 13英仏 14セシル=ローズ 15ジョゼフ=チェンバレン 16南アフリカ連邦 17アパルトヘイト 18カメルーン 19ヘレロ 20アドワ 21アンゴラ 22モザンビーク

続く




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