はじめに
新課程から各大学で出題されている割に世界史選択者には知識が不足しがちな沖縄について復習します。第2回は19世紀の開国から「琉球処分」までをたどります。
『新訂ジュニア版琉球・沖縄史』をベースに山川出版社の『世界史探究』『日本史探究』『歴史総合』の教科書、『詳説日本史研究』を参考にしています。
今回はこちらを多く参照しています。
沖縄の痛みとコザ暴動を描いた『宝島』。刑事になったグスク(妻夫木聡)は米兵の不法行為を日本の司法で裁けないことに苛立ちを隠せません。
前回
bunbunshinrosaijki.hatenablog.com
目次
7 開国~琉球処分
① 開国
19世紀 琉球近海に西欧の船が来航
1842年 南京条約 上海など5港開港
米仏も同様の条約を結ぶ。米…望厦条約、仏…(1 )条約
1853年5月 アメリカ東インド艦隊司令長官[2 ]が那覇に来港
和親と通商を要求するが琉球は拒否
同年7月 ペリーが浦賀に来港、フィルモアの国書を持参し日本に開港を要求
1854年 ペリー、幕府と(3 )条約、琉球と(4 )条約を結ぶ
補給品の購入、避難のための入港、難破船員の保護
琉球は同様の条約をオランダ、フランスとも締結
② 日本による併合
1867年12月 明治の新政府成立
同年(6 )条規…日清の対等な条約
1872年 明治政府、琉球国王[7 ]を「琉球藩王」とし華族とする
1874年 明治政府の(8 )出兵
1871年 宮古島の船が台湾に漂着、乗組員が現地民に殺害される
イギリスの調停 清朝が賠償金を支払う
1879年 琉球処分…明治政府 琉球藩を廃止、(9 )県を設置
沖縄本島や清朝への亡命者の反対運動 清朝に「琉球王国」復活を請願
→清朝が米前大統領グラントに相談→伊藤博文と会談し日清交渉を提案
宮古、八重山を清朝領とするかわり日清修好条規に日本に有利な条文追加
→日本の中国進出を警戒する清朝と亡命者の反対請願で棚上げに
1894年 日清戦争
1895年 (10 )条約で講和。琉球の帰属問題は自然解決
① ペリーは日本に来る前に沖縄に来た?
那覇市のペリー提督上陸記念碑
フランスが清と条約を結ぶと、香港やマカオのような海軍や貿易の基地を必要とし、1846年に琉球に友好と貿易を求めました。しかし琉球側(首里王府)は物資が少ないことを理由にこれを拒否しました。
次にイギリスがやってきて、宣教師のベッテルハイムが8年にわたって琉球で布教を行いましたが、王府の妨害でキリスト教を琉球に広めることはできませんでした。
琉球周辺が騒がしくなってきた中、1853年にペリーが琉球に来航します。
清と条約を結んだアメリカ合衆国は上海への太平洋航路を開きたいと考えていました。1848年にカリフォルニアを獲得してそれは現実味を帯びます。ペリーは1852年にノーフォークを出発し喜望峰を経由して東アジアに来ましたが、太平洋航路が開発されれば東アジアに達する日数が一気に短縮されます。
フリーの世界地図にぶんぶんが(雑な)航路を追加

ただしそのためには太平洋のどこかに石炭の補給地が必要です。また当時北太平洋で捕鯨活動がさかんになり、補給基地や漂流民の引き渡しが課題になっていて、これを口実に日本に開港を迫るというのがアメリカの筋書きでした。
しかし日本が入港を認めない可能性があるので、その場合は琉球の港を占領しようとペリーは考えました。そこでペリーは琉球に入港し、補給基地を確保した後で日本に向かいました。
ペリーは首里城で王府の高官と会談し、薪水や日用品の補給の約束を取り付けた後、小笠原諸島を探索してアメリカ人から貯炭地を購入し、那覇に戻って1853年7月に日本の浦賀に上陸、フィルモアの国書を渡して那覇に入港しました。
ペリーは国王尚泰と直談判して宿泊所や貯炭所、必需品の購入市場を認めさせ、1854年に日本に向かい日米和親条約を結びます。その際幕府に那覇の開港を求めますが、幕府は交渉を避けました。「YES・NO」をいうと幕府が琉球を支配下に置いていることを公言することになり、「支配下にない」というとアメリカが琉球を征服する可能性があるからと推察します。

日本の開港(下田と箱館)で琉球を占領する必要はなくなりましたが、ペリーは琉球も正式に開港させようと琉球に戻り、必要品の購入、遭難者の保護などが約されました。ただし琉球側が清に無断で「条約」を結ぶことを嫌ったので、「条約」の文言がある前文は削除されました。
王府は薩摩に「脅されて条約を締結した」と報告しますが、薩摩も幕府も問題とせず、むしろ薩摩は琉球経由で蒸気船を購入しようとしますが、王府は薩摩や西欧諸国との関係が清に露見するとして拒否します。
つまり諸外国と条約を結んでも首里王府は「日中両属」を公式には秘密にすることにこだわったといえます。
探究:ボード事件
ペリーが日本滞在中、居残り部隊の水兵3名が民家に押し入って略奪と女性への性加害を働き、住民に追跡され逃亡した水兵のひとり(ボード)が死亡しました。ペリーが王府に真相究明を要求し、再調査の結果水兵を追跡した集団が投げた石が水兵の頭に当たって海中に落ちたことがわかり、王府は主犯に流刑の判決、ペリーは水兵2名を軍法会議にかけました。
*王府はこの刑を実施せず、再再調査で石を投げた本人を特定して流罪に、最初主犯とされたものは共犯者とともに90日の寺入りとし、米に対しては流刑地で死んだことにしました。米側も2名をどう処罰したか不明です。つまり両者にとって「不法行為に毅然たる態度をとった」事実が重要でした。
この事件を受けて、琉米条約ではアメリカ人が不法を行った場合は琉球の役人が逮捕できる、アメリカ人の処罰は船長が行うことが取り決められました。いわゆる「領事裁判権」です。
互いの犯罪者を互いの法律で裁くので「公平」とも言えますが、これが不平等条約と認識されるのは、日本が西洋的な主権国家になり、西欧諸国間には領事裁判権がないことを知ってからです。
しかし米兵の民間人への狼藉がこの頃からあったとは怒り心頭です。(# ゚Д゚)
② 琉球「処分」は非礼への罰?
明治政府は大名の領地を「藩」とし(府と県は直轄地)、1869年に版籍奉還で大名に領地・領民を天皇に返還させ、改めて大名を知藩事に任命し引き続き藩を統治させました。鹿児島藩は琉球の管轄権も天皇に奉還し、改めて与えられました。
1871年の廃藩置県ではすべての藩が廃止され、中央集権的な県が設置されます。鹿児島藩は鹿児島県にスライド、琉球の扱いはそのままでした。
廃藩置県直後に締結された日清修好条規で両国は国交を結び、互いに外交使節を常駐させ、開港地での貿易を認め合いました。
この時に清側の提案で「両国に属したる邦土」の相互不可侵が盛り込まれました。清は「属したる邦土」には朝鮮や琉球など「属国」も含まれると解釈していましたが、日本側は「直接の支配地」と解釈し、解釈が違うまま条約は締結されました。
1872年、大蔵省は「琉球が天皇と清の両方に臣従するのは非礼である、内地と同じようにその版籍を日本に所属させ清から切り離すべき」と太政官に答申しました。「琉球処分」の原型です。左院が検討した結果、清との外交問題は避けたい外務省の意見を受けて、琉球を「琉球藩」、国王を「藩王」に封じ天皇に直属させる一方、琉球が米仏蘭と結んだ条約は日本が引き継ぎ、西洋諸国に対して琉球が独立国としてふるまえなくしました。
この時点では琉球は薩摩から天皇直属にはなったものの版籍奉還は行われず、まだ独立の体裁は保っています。
明治維新の成功を祝福するために琉球王国から派遣された使節(上段右1名は外務省の役人)。。著作権切れでパブリックドメイン。

③ 牡丹社事件
1871年、宮古島の船が首里王府へ朝貢した帰路に遭難し、台湾島南部に漂着しました。上陸した66名が先住民(牡丹社)の集落を訪れたところ侵入者とみなされて54名が殺害され、生き残った12名は漢族の住民を通じて台湾府に保護され、福州へ送還された後に琉球の朝貢船に乗って1872年に帰国しました。
この情報が鹿児島県庁に伝わり、県令の大山綱良は政府に台湾出兵許可を求めました。琉球は従来漂流民に関しては清と扱いを決めていたので(今回の処理がその手順)出兵取りやめを求めますが、明治政府はこれを契機ととらえました。
1873年に副島外務卿が日清修好条規の批准書の交換に清を訪れた際、この件について「我が国の人民が台湾の先住民に殺されたので日本政府が処罰する」と伝えると、清は「保護したのは琉球民で日本の人民ではない」「事件を起こしたのは台湾の先住民のうち清の統治に服さない「生蕃」なので清に責任がない」と回答しました。
政府は1874年に西郷従道を総司令官に台湾に出兵しました。英仏公使から警告を受け、清から撤兵を勧告する文章を受けながら遠征軍は原住民集落を制圧し、そのまま駐兵を続けました。
水門の戦いを描いた錦絵。日本兵はマラリアに苦しめられ、死者の大半は病死でした。パブリックドメイン。

探究:征韓論と台湾出兵
岩倉使節団が欧米視察中、留守政府では朝鮮の非礼に対して「征韓論」が台頭、西郷隆盛を朝鮮に派遣する案が浮上しましたが、帰国した大久保利通らが反対、西郷や副島は辞職しました(1873年 明治六年の政変)。大久保は副島の交渉を引き継ぎ、台湾出兵を承認しました。征韓論より清の介入リスクが少なく、不正士族のガス抜きにもなると判断したからと推察します。
結局、イギリスの調停で清が日本の行為を「義挙」と認め、50万両の賠償金(被害者への慰問金)を支払うことで日本は撤兵しました。
この際の条文に「台湾の生蕃が日本国属民等を殺害したので」とあります。1873年に小田県(現岡山県西部、広島県東部)の漂流民が台湾で略奪される事件が起こっていたので「日本国属民等」という表記なのですが、日本は琉球人も「等」に含むと解釈しました。これが琉球併合の言質として使われます。しかし清は従来通り琉球を朝貢国と考えていましたし、琉球も進貢船を清に向かわせています。
④ 琉球併合
大久保は琉球併合の方針をかためます。1875年に同治帝が逝去、光緒帝が即位しました。琉球は藩になった後も清に朝貢を続けていたので、琉球が慶賀使を送ると琉球併合計画に支障が出ます。
大久保は4月に上京した琉球の高官に日本の年号を使うこと、琉球藩を府県に準ずる制度にすること、日本の刑法を施行すること、若手の役人を上京させ新制度や学問を学ぶことをを通告します。
琉球側は副島外務卿との約束を盾に現状維持を訴えますが大久保は譲らず、処分官の松田道之を琉球に派遣して先述の内容に清への朝貢禁止と那覇港に鎮台分営(日本の軍隊)を置くことを加えた「藩政改革案」を通告します。
王府は従来の体制維持を嘆願しますが松田は聞き入れません。松田は再度琉球を訪れ説得しますが王府は応じず、それどころか琉球は清に使いを送って救援を求め、清が日本に公使を派遣して抗議するなど事態は「国際問題化」します。
説得による併合は困難とみた明治政府は1879年、藩王の逮捕権など強硬な処分案を松田に持たせて軍隊や警察とともに琉球へ派遣し、首里城で琉球藩の廃止と沖縄県の設置を通達しました。藩王尚泰は華族として東京に住むことを命じられ、琉球の土地、人民およびそれに関するすべての書類は明治政府に引き渡されることになりました。
琉球処分時に首里城の歓會門前に立つ日本政府軍 著作権切れでパブリックドメイン。

しかし王府の反対は根強く、清に使いを送って救援の嘆願を繰り返しました。宮古・八重山でも「日本化」反対運動がおこりました。
ただ反対の中心は王府の特権階級で、無禄の下級士族や地方役人の搾取に苦しむ農民は王府に反感を抱いていました。明治政府はそれを捉えて「琉球の併合は人民のため」を大義名分にしましたが、併合が琉球の民のためになったかは別の話です。
沖縄県が設置された後も県内では反対運動とその弾圧が続き、清への亡命者は琉球王国復活のため清への嘆願を繰り返しました。
探究:立ちんぼの巨人?
教科書に掲載されている、團團珍聞(まるまるちんぶん。明治時代の週刊戯画入り時局風刺雑誌)の戯画。
タイトルは「世界七不思議のひとつ、執兒狼手港古銅人の図」。記事を雑に訳すると「偶像は唐の銅、いや日本金だ、いやその両方だと言われて長く踏ん張っていたが、ナマズがやってきて大地震がはじまった(始松田=松田道之)、ぐらつき王(大)騒ぎ、腰の布が取れて金玉の点がとれて王字(王の地位と「しなもん」=一物)が宙ぶらりんに、残り半分立て居て跡がなく…」です。
イラストには琉球人に対する偏見を感じなくもないですが、記事は琉球の日中両属、明治政府の強硬姿勢、琉球王府の動揺を的確に皮肉っています。
歴史総合の史料読解に使えますが、ヴィクトリア朝価値観が支配する高校にはお下品かもしれません。
⑤ 宮古、八重山は中国領に?

琉球からの再三の請願を受けた清は中国に立ち寄ったグラント(南北戦争の北軍の指揮官)に調停を依頼し、彼は伊藤博文らと会談して日清交渉が開かれるよう了解を取り付けました。
1880年の会談で日本は李鴻章に沖縄諸島以北を日本領、宮古・八重山諸島を中国領とするかわり、日清修好条規に日本商人が中国内部で欧米諸国並みの商業活動ができるよう条文を追加する案を示しました。
Alberth2さん作「Miyakojima in Okinawa Map.gif」クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植
李鴻章は三分割案を主張しますが(奄美は日本、沖縄本島は日清共同管理、宮古・八重山は清)日本は拒否、当時ロシアとの国境紛争を抱えていたので日本案をもとに話し合うことに同意し、1880年の正式な交渉で「分島・増約」が合意されました。
しかし清は調印の段階になると「増約」による国内市場の混乱や、このことが台湾・朝鮮への日本の進出を招くことを警戒して調印をためらい、また琉球の亡命者からは反対の請願が再三にわたって届けられたので、条約の正式調印は棚上げになりました。
結局日清戦争で日本が勝利すると琉球の帰属問題も「自然解決」となり、琉球は完全に日本領となりました。以下次号。
おわりに
① 「歴史総合」では日本の国土がマスト暗記知識?
| 年代 | 条約その他 |
| 1854 | 日露和親条約 |
| 1869 | 蝦夷地を北海道と改称。開拓使設置 |
| 1871 | 日清修好条規 |
| 1874 | 台湾出兵。屯田兵制度 |
| 1875 | 樺太・千島交換条約 |
| 1876 | 小笠原諸島統治開始 |
| 1876 | 日朝修好条規 |
| 1879 | 沖縄県設置 |
| 1895 | 尖閣諸島編入 |
| 1899 | 北海道旧土人保護法 |
| 1905 | 竹島編入閣議決定 |
「歴史総合」各社の教科書には日本の領土の帰属年が記述されています。2025年の慶應義塾大学で出題されました。
19世紀後半に東アジアに主権国家の波が訪れると、冊封体制に代わってどこまでが主権の及ぶ範囲かを確定する必要が生じました。その過程で琉球や蝦夷地は日本への同化を余儀なくされます。
「日本国民としての自覚」や「我が国の歴史に対する愛情」が「歴史総合」の目標ですが、そもそも「日本」とは何かについては常に問いたいです。
② 「琉球」?「沖縄」?
唐代に編纂された『隋書』『北史』『通典』に「琉求」の記述がありり(ただし台湾のことか沖縄本島までの島々を指すのかは議論あり)、14世紀に察度王が明に朝貢すると「琉球」が明による沖縄本島の呼称になりました。
一方「沖縄」は古くから沖縄本島の人々が自分の島を「ウチナー」と呼んでいたことに由来し、「沖縄」の表記は17世紀の薩摩の資料や、18世紀に新井白石が著した琉球の地理書である『南島志』に見られます。
明治政府が「沖縄県」という名称を使ったのは琉球は清の属国ではないことを示すため、逆に米占領下で「琉球政府」の名称が使われたのは沖縄の独自性を強調して本土から分離するためと推察できます。
地域をどう呼ぶか(呼ばされるか)も記憶と表徴、政治と無関係ではいられません。
戦前の沖縄県には高等学校以上はありませんでした。1947年に本土と同じ学制改革が実施され、住民から大学設置要求が起きると米国軍政府教育部は沖縄民政府に大学設立を指令し、1950年に沖縄最初の大学として琉球大学が開学しました。1960年代の琉球大学。パブリックドメイン。

空欄
1黄埔 2ペリー 3日米和親 4琉米 5廃藩置県 6日清修好条規 7尚泰 8台湾
9沖縄 10下関
