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お釈迦様が教えられた最もすばらしい仕事

親鸞聖人にまつわる有名な言葉があります。
「非僧非俗(ひそうひぞく)」
僧侶にあらず、俗人にあらず、という言葉です。
これは一体どういう意味でしょうか?

親鸞聖人が35歳のとき、「承元の法難」という出来事が起きました。
法然上人のお弟子たちが、時の権力者の逆鱗に触れ、
お弟子のうちで死刑に処される人もあり、
法然上人は流刑、親鸞聖人も越後に流刑となったのです。

そのとき、国家権力によって「僧侶の位を剥奪された」という形にされました。
これに対して親鸞聖人はこう言われました。
「そもそも、権力者が認めるような僧侶の位など、自分には最初から必要がない。
 しかしだからといって、俗人でもない」と。

権力者に認められることで成り立つ「僧侶」ではなく、
真実の仏法をひたすら明らかにし続ける、それが本当の僧侶であるという
強烈な自覚がそこにありました。

今の仏教界の現状はどうでしょうか。
葬式をして戒名をつけて、受験必勝や商売繁盛のお守りを売る。
ある有名なお寺には、「オクトパス(タコ)=置くとパス(置くと合格)」という
ダジャレのタコの人形が置いてあるそうです。
親鸞聖人の教えを伝えるはずの場所で、です。

「坊主」という言葉は、あまりいい意味では使われません。
門徒の方でも「親鸞聖人って、どこの国の人ですか?」と言う人もあるとか。
浄土真宗のお寺がたくさんある地域でさえ、そういうことが起きています。

これは、真実の仏法を説かない結果です。
種まきをしなければ、実は実りません。
親鸞聖人が明らかにされた教えを伝えることなく、
祈祷や行事の運営を主にしていれば、誰も人生の目的を知ることはできません。

お釈迦様がある日、托鉢をしながら歩いていると、
農作業をしているお百姓さんにこんなことを言われました。
「そんなブラブラせずに、少しは働いたらどうだ」と。

お釈迦様はこう答えられました。
「私も労働者だ。忍辱という牛と、精進という鋤で、
 一切の人々の心の田んぼを耕している」と。

「忍辱」とは辱めを忍ぶ、つまり忍耐のことです。
「精進」とは精を出して進む、つまり努力することです。

人生の目的をまだ知らない人に、それを明らかにしていく。
「お金さえあれば幸せになれる」
「出世すれば満足できる」
「家族がいればいい」
さまざまな思い込みを持った人たちの心の田んぼを、根気よく耕し続ける。
それがお釈迦様の仕事だったということです。

仏法を聞き始める前の私たちの心は、石ころがごろごろして、
種を植えられる状態ではないと言われます。
盤根錯節ということで、根が絡み合い、節だらけの固い地面のようなものです。

最初から「仏法を聞きたい」という人は、ほとんどいません。
他にやりたいことがある、
時間がもったいない、
仏法なんて関係ない、
そう思っています。

でも、繰り返し繰り返し聞いていく中で、
「なるほど、そういうことか」という瞬間がやってくる。
1回や2回で諦めていては、誰も仏法を求めることにならないんですね。
何回も何回も話を重ねて、やっと「そうか」と分かる。
それが心の田んぼが耕されていく姿です。

仏教では「布施」にも2種類あると教えられています。
1つは「財施」で、お金やものを与えること。
もう1つは「法施」で、仏法を伝えることです。

この2つのうち、最もすばらしいのは法施です。
まだ人生の目的を知らない人に、人生の目的があることを伝える。
仏法によって得られる幸せは、永遠に崩れることがありません。

「はたを楽にする」と書いて「働く」という言葉があります。
さまざまな形で人を幸せにする仕事があります。
でも、心の底から「生きてきてよかった」という喜びを得て、それがずっと続く
そういう本当の幸せは、仏法を聞かなければ絶対に得られません。

その最高の幸せを伝える活動以上に、素晴らしい仕事はないと
お釈迦様は言われています。

中国の高僧、善導大師のこんなお言葉があります。

「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」

自ら信じ、人にも教えて信じさせることは、難しい中にも、さらに難しい。
慈悲をもって広く伝える。
それが真にの恩に報いることだ、ということです。

真剣に仏法を聞こうとすればするほど、
「これは一筋縄ではいかない」と分かってきます。
でも、その難しさに向き合い続けて、心の闇が破れ、
人生の目的を果たしたとハッキリする瞬間がある。
そして、その世界があることを伝えることは、大変なことです。
でも、大変なことをすることは、それだけ素晴らしいことなんですね。

どんな状況の中にいても、仏法を聞いて信心決定した人が、
その世界のあることをひたすら伝え続ける。
天皇に認められるかどうか、肩書きがあるかどうか、
そういうことは関係ないんですね。

真実の仏法をひたすら伝える、それが
親鸞聖人が「非僧非俗」という言葉で示された、本当の僧侶の姿です。

教えを聞いて、分かって、伝えていく。
その一歩一歩が、心の田んぼを耕し、人生の目的へと向かっていく道です。 

智慧がないと分からない世界

人間のことを「知・情・意の動物」と言います。
知性・感情・意志の三つで成り立っているという意味です。

でも実際のところ、人間が行動する時、
知性や理性よりも感情が大きく影響しています。
これは心理学的にも言われていることで
「なるほど、そうだ」と頭で理解しても、
心が動かなければ人は動きません。

仏法を伝えたい時、つい理屈で説得しようとしてしまいがちです。
でも、相手の心を動かすのは、論理より先に、関係性と感情です。

こんなことがありました。

仏教が初めての方が色々と質問をしていました。
難しい質問、核心をついた質問、はぐらかすような質問。
講座が終わって夜遅く、みんなお腹も空いていた頃、
その方にカレーをおごったそうです。
するとその方は、「もう分かりました」という顔になった、というのです。

これは笑い話ではありません。
疲れていて、お腹が空いていて、緊張している時
そういう状態の時に、人の心は一番閉じています。
そんな時に理屈で説得しようとしても、まず届きません。

温かいご飯を一緒に食べる。
ただそれだけで、心がほぐれて、本音が出てくる。
人間ってそういうものです。

仏法のご縁をつなぐ時、まず心がけたいことがあります。
笑顔でいること、元気でいること、思いやりを持つこと、
一緒に食事をすること、褒めること、
その場にいない時も、陰でその人を褒めること。

これがなければ、せっかくのご縁はほとんど吹き飛んでしまいます。
逆に言えば、これができていれば、
難しい教学の話をする前から、すでに大切な種まきができています。

「そうですよね、分からないですよね。
 カフェにでも行きません?」
こういう一言のほうが、長い説明より何倍も響くことがあります。

仏教には、人間の頭では簡単に理解できない世界があります。
阿弥陀仏という様のこと、諸仏のこと、後生のこと。
これらはお釈迦様が仏智を体得されて初めて発見されたことで、
私たちの日常の経験からは類推しにくいものです。

お経のお言葉でいうと「仏仏相念」とか「唯仏与仏」、
仏様同士でしか通じ合えない境地、ということです。

これはたとえるなら、恋人同士の「目と目で通じ合う」感覚のようなもの。
外から見ていても何も分からないけれど、
当事者同士にはハッキリ分かる。

あるいは、フランスに行ってフランス語が飛び交っている中に、
まったくフランス語を知らない日本人が入ったようなものです。
言葉が違えば、いくら聞いても意味が分かりません。

私たちは「有漏の穢身」と言われ、煩悩の塊です。
その私たちには、仏様の世界がそのままでは
見えないし、聞こえないし、分からない。
それは境涯が違うからです。

お経に、こんなたとえ話があります。
お米の中に虫が住んでいます。
その虫は「今日はふかふかのベッドだ」「ご馳走だー」と大満足しています。
でも外から見れば、それはただのお米です。

私たちもこれと同じです。
人間の世界の中で分かることしか分からない。
もっと広い、もっと深い世界があると言われても、
そこまで智慧が及ばないので、実感できない。
だから、難しい仏語をそのまま伝えても、なかなか届かないんですね。

ではどうすればいいのでしょうか。

仏縁の浅い方に仏法を伝える時には、
その方が経験的に類推できるたとえ話を3つか4つ重ねて
そこに仏語を1つか2つ、そっと置く。
この順番が大切です。

難しい教学の根拠ばかりを並べても、ご縁の浅い方には届きません。
身近なたとえ話のほうが、するりと心に入ることがあります。

「走れメロス」の話でいえば、メロスがセルヌンティウスのもとへ全力で走り続けた。
その感覚が、阿弥陀仏に向かって聞法し続ける姿と重なる、という伝え方もできます。

仏法を伝えることは、知識を教えることではありません。
まず相手と仲良くなること。
笑顔で、元気で、思いやりを持って、与え続けること。

その温かい関係の中から、自然と本音が出てきて
仏縁が開かれていきます。

理屈より先に笑顔を、説明より先に食事を、
教学より先に、真心を。
それが、仏法を伝える第一歩です。

そしてその実践こそが、お釈迦様があらゆるを6つにまとめられた
六波羅蜜の1つ、布施の日常における姿なんですね。



心の闇が破れたという体験があるかどうか

仏教の話を聞いていると
「自分も仏教に教えられる本当の幸せになれるのかな」
「本当にそんなことがあるのかな」と
どこかモヤモヤしたまま聞き続けてしまう、という人もあるようです。

教えが知識として頭に入っているけれど、
それが自分のこととして響いてこない。
そんな感覚を持ったことがある人は、きっと少なくないはずです。

昔は、報恩講などの大きな行事の時に、お寺僧侶を招待して
仏法を説いていただく習慣があったそうです。

そのように仏法を説かれる先生は、非常に大切な方だったので、
色々と心配りをして、丁重にお風呂に案内した。
そして「お湯の加減はいかがですか?」と尋ねるのですが、
先生はなかなか返事をしない。
もう一度聞いても「まあ、こんなもんでしょう」としか答えない。

そこで、
「熱いなら熱い、ぬるいならぬるい、ちょうど良いならちょうど良いと
 ハッキリ言っていただかないと困ります」
こう訴えても、やはり同じ返事。

不思議に思って扉をそっと開けてみると
先生はまだお風呂の外で、夏の汗でかたく結ばれた下着の紐をほどこうと
悪戦苦闘している最中だったとか。

お風呂に入っていないので、湯加減が答えられなくて当然ですよね。
どれだけ学問があっても、感覚が鋭くても、体験がなければ答えることはできません。

これは仏法の聞き方に、そのまま当てはまります。
どんなに仏教の本を読んでいても、どんなに講座に通っていても
心の闇が破れて「ああ、本当であった」とハッキリする体験がなければ、
湯加減を答えられない先生と同じです。

信心決定なんてあるんですか?」
極楽って本当にあるんですか?」と聞かれても
「まあ、こんなもんでしょう」としか答えられない。

親鸞聖人が明らかにされた教えは、知識や教養として
右から入って左へ抜けていくものではありません。
心の闇が破れ、未来永遠の幸せに生かされる、その体験を
仏教では「破闇満願(はあんまんがん)」と言います。

太宰治の『走れメロス』では
メロスが処刑までの身代わりになってくれた
友人・セリヌンティウスのもとへ必死に走り続けます。
セリヌンティウスは待ちながら「もしかしたら来ないかもしれない」と疑ってしまう。
でも、メロスが目の前に現れた瞬間、その疑いは消えます。

誰かにお金を貸した時、「本当に返ってくるのかな」という疑いは
返ってくるまでなくなりません。
でも期限通りに戻ってきた時、「間違いなかった」とハッキリします。

仏法も、まったく同じです。
「本当に救われるのだろうか」という疑いは、救われるまでなくなりません。
でも救われた時に、2600年前にお釈迦様が説かれた教えが
この私のためにあったことがハッキリ分かります。
「本当だった、本当だった」と知らされる。
そういう鮮やかな決勝点が、仏教にはあるんですね。

「あんな人でもできていないなら、私にもできないだろう」
「いくら聞いても分からない」

そういう思い込みのフィルターで聞いていると
極速円融の真詮と言われる、あっという間もない一念で
完全無欠に救われる真の教えを、自分の手でちっぽけなものに
すり替えてしまいます。

仏法は絵に描いた餅ではありません。
描いた餅は見ることはできても、食べることはできない。
でも仏法は、手に取って味わうことができるものです。
これを仏教では「一念の味がある」と言います。
体験できるということです。

本当の先生に出会い、親鸞聖人の教えを素直に聞いていくと
聞即信の一念で、阿弥陀如来の本願というお風呂の中に入ることができます。

その時に初めて、「熱いなら熱い、ぬるいならぬるい」とハッキリ言える人になれる。
疑いではなく、「まことだった」という体験として知らされる。
学歴も、経験も、感覚のシャープさも関係ありません。
どんな人でも、ハッキリすっきりする決勝点がある。
それが、お釈迦様から親鸞聖人へと受け継がれた、極速円融の真詮です。

正信偈に込められたメッセージ

浄土真宗葬式お通夜などで読まれる『正信偈』は
親鸞聖人の書かれたものです。
その『正信偈』は、主著である『教行信証』の行巻の終わりに書かれています。

親鸞聖人の主なご著書は5つありますが、
中でも『教行信証』は浄土真宗の根本聖典と言われるもの。
親鸞聖人が関東で布教なされていた時に書かれて
90歳でお亡くなりになられるまで、修正を重ねられています。

親鸞聖人は、激しいご布教の合間をぬって
この『教行信証』をお書きになられました。

まず、村の人たちの中に入っていかれて、一緒に田植えをされる。
1日田植えをされただけで、大変なお疲れの状態です。
引越しのバイトをした後に、クタクタに疲れて自宅に戻って
「さあ、これから勉強だ!」という気にはなかなかなれないと思います。
疲れて倒れてしまう。

ところが親鸞聖人は、田植えの後に村の人たちにご説法をされて
その後さらに『教行信証』のご執筆をなされています。

「急がなければならないことがある」と言われて
お疲れの中をお書きくだされた。
「どうしたら分かってもらえるか」
果てしなき悩みだと、一字一涙の想いで書かれたそうです。
そして、何度も何度も修正を加えられました。

その『教行信証』をギュッと圧縮したものが『正信偈』です。
1行7文字の120行で840字。
この840字の中に、親鸞聖人のみ教えがつまっています。

仏教の盛んな北陸や中国地方などへ行くと
昔から毎日、お仏壇の前で勤行をする時に読まれています。
それが、浄土真宗の習慣になっています。

正信偈』をお経だと思っている人もありますが、
お経はお釈迦様が説かれたものなので、違います。

正信偈』を読むということは、800年の時を越えて
直接、親鸞聖人から仏法を聞かせていただくということです。
自分の口を通して、直のご説法を聴聞する。
葬式や法事の時だけでなく、仏教のお話の前にも
伝統的に勤行がなされています。

その『正信偈』を読ませていただく時の心がけとして
こう教えられています。

「好きな人からもらったラブレターを読むように」と。

大切に、一行一行丁寧に読ませていただく。
行間まで読み取ろうとする。
大事にしまっておいて、ことあるごとに出してきて
繰り返し繰り返し拝読する。

本当の幸せになってもらいたい、無碍の一道に出てもらいたいと
一字一涙の想いで生涯かけて書かれた親鸞聖人のお気持ちを
汲み取るように読ませていただく。
意味が分からなくても「読書百遍、意自ずから通ず」と言われるように
読むことによって、その意味が分かるようになってきます。

正信偈』とは、正しい信心をうたの形であらわされたものです。
信心とは、心で何かを信じること。

人は何かを信じて生きています。
逆にいえば、何かを信じなければ生きていけません。
でも、裏切られるものを信じていては苦しいだけ。

では、絶対に裏切らないものは何でしょうか。
そういう正しい信心一つを教えられたのが『正信偈』です。

正信偈』の最初の2行は
「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

帰命というのは昔の中国の言葉で、南無はインドの言葉です。
どちらも、救われたとか、助けられたという意味です。
無量寿如来とか不可思議光というのは、阿弥陀仏という様のこと。

つまり親鸞聖人は
阿弥陀仏に救われたぞ、阿弥陀仏に助けられたぞ」と叫ばれているんですね。
なぜ同じことを2回も繰り返し言われているのか。

1つは、救われたらハッキリするということです。
救われたのかどうか、人に聞かなければ分からない
というものではありません。
火に触ったよりもハッキリすると言われます。

2つ目は言い尽くせない喜びから。
大切なものをなくして、ずっと探していた時に
それを見つけたら「あった、あった!」と言うと思います。
受験から合格発表までずっと不安だった大学に合格した時も
「受かった、受かった!」と言うはず。

言い尽くせないということは
死ぬまで喜びは変わらないということです。

この「阿弥陀仏に救われた」というのは、何を救われたのかというと
私たちの苦しみ悩みの根元である心の闇が破られ
未来永劫の幸せに救われたということです。

親鸞聖人は「自分が勝手に言っているのではない」ということで
インド・中国・日本の7人の高僧、七高僧を順番に挙げられて
龍樹菩薩天親菩薩曇鸞大師道綽禅師善導大師源信僧都法然上人が
それぞれどのように教えていかれたかを書かれています。

そして『正信偈』の最後の2行は、私たちへのメッセージです。
「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説」

「すべての人よ、この親鸞と同じ世界に出てください。
 ただ、この高僧方の説かれたことを信じて、聴聞してください。
 この親鸞が生き証人ですよ。
 早くこの世界に出てください」

このように言われています。

正信偈』は親鸞聖人が一字一涙の想いで書かれたもの。
840字の中に、親鸞聖人のみ教えがすべて込められています。
だから、好きな人からもらったラブレターを読むように
一行一行を大切に読ませていただく。
800年の時を越えて、親鸞聖人から直接聞かせていただく。
そして、親鸞聖人が叫ばれた「阿弥陀仏に救われたぞ」という
そのハッキリした世界に、私たちも出させていただく。
それが『正信偈』を読ませていただく意味なんですね。

有無同然によって分かること

「死ぬまで求道」ということが、よく言われますが、
仏教では、死ぬまで完成がなく求め続けなければならないのではなく、
完成したということがあると教えられます。

それを表したお言葉がこちら。

「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。
 これを『聞』というなり」

これは、浄土真宗親鸞聖人のお言葉で、
主著の『教行信証』に記されています。

仏法は聴聞に極まる、だから教えを真剣に聞きなさい
と言われます。
では「聞く」とはどういうことでしょうか?

それが、仏願の生起・本末を聞いて、疑いの心がなくなったこと
これが「聞く」ということ。

まず「仏願」というのは、お釈迦様仏のさとりを開かれて
涅槃に入られるまでの45年間説き続けられた、たった一つのこと
阿弥陀仏の本願です。

正信偈』には「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」とありますが、
お釈迦様がこの世に現れられた目的は
ただ阿弥陀仏の本願一つを説くためだったと言われています。

そして「生起・本末」とは、生まれ起こされた本から末まで、ということです。
なぜ阿弥陀仏の本願が建てられたのか。
その本から末までを聞いて、疑いがなくなったことを「聞」というんですね。

本から末までよく聞かないと、早とちりとかで
誤解してしまうことがあります。
仏教を本から末まで正しく聞けばよく分かるのですが、
正しく聞かないと、何を教えられているか、サッパリ訳が分かりません。

たとえば、こんな話で考えてみましょう。
あるところに、とても重い病気で苦しんでいる人がいました。
見るに見かねた人が、その病気を何とか治してあげたいと願いを起こし、
立ち上がります。
色々調査して、実際にその病気を治すことができる医者がいることが分かりました。
その病気をどうすれば治せるか、病気の根元を突き止めた。

けれども、そのままでは治りません。
そこで、医者はその病気が治る薬を完成させました。
その薬は、どこかに飾っておくためではなく、
病人に飲ませるために作られた薬です。

その薬を病人に与えると、病気が全快しました。
病気が治ると、病気を治してくれたその医者に
お礼を言わずにいられなくなりました。

こういう話は、本から末まで順番に聞けば、誰でも分かります。
「本」は、とても重い病気で苦しんでいる人がいた。
「末」は、病気が治ってお礼を言う。
これが本末です。

世の中には「本末転倒」という話があります。
ある人がとても重い病気にかかりました。
いつも笑顔でにこやかに、暗い顔をできない病気にかかってしまったのです。
好きな人にフラれても、仕事がうまくいかなくても、暗い顔ができない。

見るに見かねたあなたは、その人に喜怒哀楽を与えたい。
どうしたら病気を治せるか。
医学部に通って、原因を突き止め、治す薬を作りました。
その薬を与えたら、その人は顔面笑顔病から全快しました。

仕事でミスをすると落ち込み、
好きな人にフラれたら、もっと落ち込むようになりました。
そして「ありがとうございました」とあなたにお礼を言いました。

ところが、本末転倒するとこうなります。
「ありがとうございました」と言うと、顔面笑顔病が治った。
治って気がつくと、薬ができていた。
すると医者が出てきた。
医者が出てきたので、病人が現れた。
こういう話では、訳が分かりません。

物事は、本から末まで正しく聞かなければ分からないんですね。
仏教の話も、本から末まで正しく聞かないと分かりません。
末から本に聞いたり、少し聞いただけでは
とても分からない。

では、この話を仏教に当てはめると、どうなるでしょうか。

病人というのは、すべての人のこと。
仏教を説かれた本は「私」がいたからです。
「私」がいたから、仏願が起こされました。

どんな私かといえば、病気の私です。
病気といっても、頭痛とか腹痛といった肉体の病気ではなく、心の病気です。
心の病気というと、精神科を連想するかもしれません。
世間で起きる恐ろしいニュースでも、精神の病気が絡んでいることがあります。

でも、ここでいう心の病とは、そういうことではありません。
古今東西のすべての人が等しくかかっている病気です。

その心の病のことを、本願寺蓮如上人は
「無明業障の恐ろしき病」と『御文章』に教えられています。
正しくは「無始よりこのかたの無明業障の恐しき病」とあります。

ただの病気ではないと思いますが、とても恐ろしい病気です。
始まりのない始まりから、ずっと私たちを苦しめてきた病気なんですね。

恐ろしい病気といえば、たとえばガンのようなものです。
進行するまで自覚症状がほとんどなかったりします。

ガンは場所にもよると思いますが、初期の段階では
ほとんど自覚症状がないみたいです。
体には悪性腫瘍ができているのに、かなり進行するまで分からない。

でも、相当進行してから分かっても手遅れということもあります。
だから恐ろしいんですね。

早期に発見して、早期に治療すれば治る病気でも、
放っておくと手遅れになります。

無明業障の恐しき病は自覚症状がありません。
それが恐ろしいと言われる理由です。
これに気づく人は、ご縁の深い人。
普通はなかなか気づきません。
この病気というのは、私たちの苦しみの根元である「心の闇」のことです。

この無明業障の恐しき病には、症状があります。
肉体の病気にも症状がありますよね。
風邪だったら、発熱とか咳とか、くしゃみ、嘔吐、腹痛などです。

では、この無明業障の恐しき病の症状はというと、
お釈迦様は、漢字四字で教えられています。

「有無同然」(大無量寿経

有無同然というのは、何かがあってもなくても
苦しみ悩んでいることには変わりがない、ということです。

お経の次のところには「有田憂田 有宅憂宅」と説かれ、
田んぼがあれば、田んぼがあることを憂い、
家があれば、家を憂う。
牛や馬、家畜、お手伝いさん、お金、財産、着るもの、食べるもの、家具や調度類。
そういうものがあれば、どれほど幸せに生きていけるだろうと思うけれど、
欲しかったものが手に入ると、それが苦しみの種になるんですね。

憂いとは、不安や心配、悩みや苦しみといった、私たちの心のこと。
お金がなければないで心配。
あったらどうかというと、ポケットに入れるのも不安になります。

マイホームが欲しいと思ったら、だいぶ日数も時間もかかるし、大変です。
では家が建ったら、憂いがキレイさっぱりなくなるでしょうか?

年が経つにつれて、狭いな〜とか、古くなってきたな〜とか。
足腰の具合が悪くなってくると、階段をのぼれなくなったり。
火事や災害で焼けたり、壊れたりと、あればあったで不安なんですね。

結婚して子どもを持つ人もありますが、子どもはある意味、幸せな気がします。
夫婦の間に子どもが入って、幸せをつなぐ。
子どもがいない人にとっては「子どもがいたら、どんなに幸せだろう」と思います。
でも、子どもがあればあったで、別の苦しみがあります。

お釈迦様がおられた当時、マガダ国の王夫妻には子どもがありませんでした。
権力者にとって、子どもがいないというのは大変なことです。
心から子どもを願って、ついに待望の子どもを持つことができましたが、
子どもを持つと、その子どものために相当苦しんだんですね。
その話が有名な「王舎城の悲劇」です。

たとえば、病気の人に山海の珍味を振る舞っても、
少しも美味しく味わえません。
それは食べ物が悪いわけではありません。
病気だからです。
心が重い病におかされているから、どんな幸せも味わえないんですね。

端から見れば、キラキラ輝いて素敵と言われる人でも
実際は苦しんでいたりします。

日本人初のノーベル文学賞に輝いた川端康成
ガス管をくわえて自殺しています。
なぜ自殺したのでしょうか。

ひとたびノーベル文学賞を取ると、そのあとに書く文章はすべて
ノーベル文学賞作家」として見られます。
そんな作家が、たわいもない幼稚な文章は書けません。
川端康成は、そのプレッシャーで書けなくなりました。
ノーベル文学賞作家が書いた文章と聞けば、人々は注目します。
それで自殺してしまったんですね。

日本の成功者といえば、豊臣秀吉徳川家康かと言われます。
その秀吉は、晩年に大阪の街を作り替えました。
なぜかというと、自分の命を守るためです。
それほど、戦々恐々と怯えていたということです。
藤吉郎と名乗っていた時代は、田んぼの真ん中で寝転んでいてもよかったのに、
太閤という高い身分になったので、命を付け狙われました。

徳川家康
「人の一生は、重荷を背負うて遠き道を行くがごとし」
と辞世を残しています。

家康の総資産は2兆円と言われ、
現代でも徳川の埋蔵金がどうとかという話もあります。
使い切れないほどのお金を持っていても、苦しみはなくならないということです。

有る苦しみは分からないという人もあると思いますが、
そこはかとなく分かります。

人は一生、何をしているかといえば、
無から有への努力、ということができます。

ところが、有無同然だったら、一体その努力とか苦労は
何のためなのでしょうか?

歴史を振り返れば、現代の部屋に普通にある
テレビや冷蔵庫、エアコンといったものは、ほとんど存在しませんでした。
こういうものがあればどうかと研究して、色んな便利なものが溢れました。
でも、溢れた中で、どれだけ心が満たされたでしょうか?

心が病気だから、どれだけあっても幸福になれない。

飛び立った飛行機は、やがて必ず燃料が切れます。
どこへ向かって飛んでいるのか。
必ず墜落しなければならない飛行機に乗っているなら
1億円持っている人と、搭乗券1枚持っている人と
何か変わるでしょうか。
これが有無同然という症状です。

仏法を説かれたのは、そういう病人がいたからです。
その病気を放っておけないと、医者が現れました。
その医者にあたるのが、阿弥陀仏という様です。
その病気を何とか治してやりたいと現れられたのが、阿弥陀仏なんですね。

その阿弥陀仏が、無明業障の恐しき病という
とても重い病気を治す力のある薬を完成されました。
それが「名号」です。

南無阿弥陀仏の六字の名号、この薬を飲むと全快します。
それが「信心決定」です。

薬を飲んだ一念で、病気はキレイさっぱり治りますので、
その嬉しさのあまり、称えずにいられないのが念仏です。

苦しんでいる私がなければ、仏願は建てられなかった。
だから一番大切なことは
仏教では恐ろしい病気にかかっていると説かれているけれど、
本当にそうなのかどうか、ということです。
ここをよく確かめることが大事です。

病気でなければいいのですが、
肉体は健康でも、心はどうでしょうか?

「生まれ難い人間に生まれてよかった」という心の人は
仏教を聞く必要がありません。
心が健康だからです。

物質的にはすごく豊かになったのに、苦しんでいるのは
本人が気づいていなくても、恐ろしい病気を腹底に抱えている証拠だと
よく知ってもらいたいと思います。

私たちは、いつも
「あれがあれば幸せ」
「これがあれば幸せ」
と思って生きています。

もう少し給料が増えれば
昇進すれば
素敵な人と結婚すれば
マイホームを持てば
子どもに恵まれれば、と。

でも、手に入れた時、本当に心から満たされるでしょうか。
新しい心配、新しい不安、新しい悩みが生まれていませんか?

これが「有無同然」です。
あってもなくても、苦しみ悩んでいることに変わりはない。
この症状に気づくことが、仏法を聞くということです。

仏願の生起・本末は
私という病人がいたから、阿弥陀仏という医者が現れた。
その医者が、無明業障の恐しき病を治す薬、
南無阿弥陀仏の名号を完成された。
その薬を飲んだ一念で、病気が治る。
それが信心決定です。
そして、嬉しさのあまり、称えずにいられないのが念仏。

この本から末までを、しっかりと聞いていきましょう。
本末転倒せずに、正しく聞いていくことが大切です。
そうすれば必ず、「よくぞ人間に生まれたものぞ」の
生命の歓喜を得ることができるんですね。

心の闇がなくなると見える世界

「汝ら、過去の因を知らんと欲すれば現在の果を見よ。
 未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」

これは『因果経』というお経に説かれている、お釈迦様のお言葉です。
分かりやすく言うと、こういうことです。

そなたたち、過去の因を知りたければ、現在の結果を見なさい。
自分が過去にどういう種まきをしていたか知りたければ
現在の結果を見れば分かる。
そして、未来どうなるか知りたければ、現在どんなことをしているか
それを見れば分かるのだと。

夜、真っ暗なところで種まきをして、どんな種をまいたのか分からなくても
実際に出てきたものを見れば、どんな種をまいたかが分かる。
これと同じです。

また、未来どうなるか。
世間では、占いを深く信じている人もありますが、
自分自身の種まきを見れば、未来どうなるかが分かるんですね。

なので、現在というのは過去と未来を解く鍵と言えます。
鍵を開けることで、中が見える。

私たちは、苦しみ悩みの根本原因となっている心の闇があるために
生まれる前のことも死んだ後のことも分かりません。
それが、その心の闇がなくなると、遠い過去からずっと
六道という迷いの世界を巡ってきたことが分かります。

そして、この世の命が終われば、一人残らず無間地獄に堕ちることが
ハッキリ分かる。
哲学的にいっても、これは凄いですよね。

仏教の根幹といわれる因果の道理は
過去世、現在世、未来世の三世を貫くものです。
それは、三世を貫くものでなければ、徹底しないからです。
現在世だけだと、因果の道理は徹底しません。

仏教を信じるということは、因果の道理を信じること。
因果の道理を信じるということは、三世因果を信じるということです。

浄土真宗親鸞聖人の曾孫で、本願寺3代目の覚如上人という方が
こう言われています。
「『欲知過去因』の文の如く、今生の有様にて宿善の有無あきらかに知りぬべし」

「欲知過去因」とは、過去を知りたければ、ということです。
この御文のように、今生の有様で過去の因が分かる。
過去どういう種まきをしてきたか知りたければ
現在の結果を見れば分かるんですね。

今生の有様で、「宿善の有無」つまり宿善があるかないか、
それを知ることができる。

普通は、幼い頃からの記憶しかありません。
生まれる前のことなんて、とても記憶にはないと思います。
そうすると、生まれる前のことを知る方法はないのかというと、
「ある」と、覚如上人はおっしゃいます。

それには2つ方法があって
1つ目は死後が気になるかどうか。
死後が気になる人は、宿善がある人です。
2つ目は仏法を尊く思う気持ちがあるかどうか。
どちらかでもあれば、宿善のある人です。

「死んだ後、あってもなくても、どっちでもいい」
そういう人は、ちょっと難しいかもしれません。
もう一度六道輪廻して、痛い目に遭わないと分からない。

「死後はない」と主張する人は、気になっているから
「死後はない」と言うんですよね。
気にならない人は「どっちでもいい」と言うはずなので。
気になっているから、「ハッキリさせなきゃ」という気持ちになる。

もう1つは、仏法というのは何を教えられているかは分からなくても、
それでも尊いと思える人。
仏教の話を1ヶ月、2ヶ月と聞いていくと
それまで死について、あまり考えてなかったけれど
だんだん気になってきた。
あるいは、仏法を尊く思うようになってきた。

こういう心のある人が、宿善のある人であり、
必ず心の闇が破れるところまで求め抜けます。
宿善があったから、こういう心が起きたということです。

本願寺8代目の蓮如上人という方が書かれたお手紙が
今日、『御文章』という形でまとめられて残されています。
その5帖目17通に、こうあります。

「夫れ、一切の女人の身は、後生を大事に思い、仏法をとうとく思う心あらば」
救われると教えられます。
後生を大事に思う、死後が気になる、
そして仏法を尊く思う心がある。
こういう人が宿善のある人です。

毎日忙しくて、目の前のことで精一杯。
「死んだ後のことなんて、考えてる暇がない」
「仏教?よく分からない」

そう思っていた人も、少しずつ聞いていくと、心が変わってきます。
死んだらどうなるんだろう
「仏法って、何か大切なことを教えているのかも」
そう思えてきたら、それが宿善なんです。

過去の種まきを知りたければ、現在の結果を見る。
未来の結果を知りたければ、現在の種まきを見る。
この結果というのは運命のことです。

現在は、過去と未来を解く鍵です。
今の自分自身を見れば、過去が分かるし、
今の自分の種まきを見れば、未来が分かる。

占いに頼るのではなく、因果の道理を知る。
善い種をまけば善い結果、つまり幸せがやってくる。
悪い種をまけば悪い結果、不幸が引き起こる。
今、どんな種をまいているか、それを見れば
未来の幸不幸が分かるんですね。

後生を大事に思う心
死後が気になる心
仏法を尊く思う心
これがあれば、宿善のある人。

最初はなくても、聞いていくうちに、だんだん出てくる。
それが、宿善が厚くなるということです。

心の闇が破れた時、本当の自分のすがたが分かる。
始まりのない始まりから、ずっと六道輪廻してきて
死んだら、無間地獄に堕ちる。
それがハッキリ分かる。
苦しみ悩みの根元がなくなって、変わらない幸せになる。

過去も未来も、現在とつながっている。
だから今を大切に、今善い種をまく。
後生を大事に思う心、仏法を尊く思う心、これを育てる。

仏教に説かれる三世因果を信じて、今を大切に生きる。
今、何をするべきなのか、どういう生き方をすればいいのか、
そういうことにしっかりと向き合って、仏教の教えを実践していく。
それが、本当の幸せにつながる唯一の道です。

生きる目的を漢字4字で表すと?

現代の日本で、仏教の最大宗派といえば浄土真宗です。
浄土真宗親鸞聖人が開祖とされます。

その親鸞聖人の教えを端的に表したのが「平生業成」
親鸞聖人の教えのすべてがこの言葉に込められています。

平生とは「生きている今」のこと、
業とは「人生の目的とか、人生の大事業」のこと。
成とは「完成、達成」ということです。

つまり、現在ただ今、人生の目的が完成する、ということです。

他にも同じことを言葉をかえて教えられています。
現生不退というのは、現在生きている時に、
不退転の崩れない絶対の幸福になれる。
不体失往生というのは、体を失わずして往生するということで、
生きている間に助かるということ。
一念往生というのは、一念というあっという間もない瞬間に往生できるということ。

真宗の肝要、一念往生をもって淵源とす」と言われます。
肝要というのは、要の中の要で、最も大事ということです。
親鸞聖人の教えのすべて、それが「一念往生」なんです。

親鸞聖人は、この教えを明らかにするために
法然上人のお弟子時代、他のお弟子とケンカまでされています。

普通、誰もケンカなんてしたくないですよね。
しかも、一緒に生活している人なので、ケンカをすると
後々まで影響があります。

でも、親鸞聖人はケンカをされました。
ケンカといっても仏法上の争いなので、諍論と言われます。
それが「体失・不体失往生の諍論」です。

相手のお弟子、善恵房証空という人が「体失往生」を主張しました。
一方、親鸞聖人は「不体失往生」を主張されました。

善恵房は相当な学者で、1つの宗派を開けるような人です。
ただ者ではありません。

でも、その善恵房の考えは、全人類の考えとも言えます。
多数決をとれば、圧倒的に善恵房が勝ちます。

善恵房がその話をした時、誰もどよめくことはありませんでした。
でも、親鸞聖人が「不体失往生」を主張された時は
どよめきが大きかったんですね。
それほど、親鸞聖人の主張は理解されにくいものだったんです。

すべての人の思想は、大きく分けると2つしかありません。
1つは死ぬまで求道、もう1つは完成のある道。

なので、全人類を相手に回しての大論争で
火砕流に1人立ち向かうようなものです。
でも、親鸞聖人が主張されたことが分からなければ
「生きてきてよかった」ということはないんですね。

世の中の道とつくものは、どれも死ぬまで求道です。
剣道、柔道、華道、茶道、弓道、書道と色々な道がありますが
いずれも完成ということはありません。
奥義とか極意とかはあっても、完成ということはないんですね。

宮本武蔵は『五輪書』で「剣の道はまだまだ遠い」と書いています。
これは深いと思いますよね。

もし「剣の道を卒業した」と書いていたら、どう思いますか?
そんな人は剣聖とは言われません。
達人になればなるほど、その道の険しさが知らされます。

オリンピックの記録も、どんどん更新されます。
世界記録も、すぐに抜かされる。
円周率を何万桁も覚えた人がいます。
でも、ツールを使えば300兆桁まで計算できる。
どんなものでも、完成がないんですね。

仏教の場合、70歳とか80歳になっても
「まだまだ」と言うのが普通だと思いますよね。
それなのに親鸞聖人は、わずか29歳で完成したと言われています。
「何を言っているの?自惚れだ」
そう思われて当然です。

親鸞聖人の流刑や、誹謗中傷の根本的な理由は、ここにありました。

こんな歌を詠んだ人があります。
「越えなばと 思いし峰に 来てみれば
  なお行く先は 山路なりけり」

人生には、これを越えなければならないという山が、常にあります。
それを乗り越えたら、何があったかというと、また山だった。
また山か、また山か。
そういう人生を詠った歌です。

学生時代だと、一番思うのはテストです。
テスト前はテストのための勉強をして、それ終わったら授業の予習をして
またテスト前になってテスト勉強を始める。

テストだけでなく、仕事や病気、人間関係もそうです。
こういう山がなくなることはありませんよね。
しかも、山はだんだん高くなる。
最後、倒れるのなら、何のために歩いていたのか、となります。

それだけの人生なら、もういいや、としゃがみこんでしまう人がいても
おかしくありません。
歩くのを諦めてしまう人がいても当然です。
それが、自殺という道を選ぶ人です。

そういう人たちに、世の中の人たちは
「とにかく頑張って!」
「とにかく生きて!」
の連呼です。

どうして歩かなければならないのかが分からない。
それが知りたいのに、その生きる理由については何も言わないんですね。

あそこまで歩いたら、「歩いてきてよかった」と思える
そういう目的地を示してこそ、「そこまで頑張って歩いていこう」という気持ちになる。

これが、人生の目的達成です。
「生まれてきてよかった」というところです。

実際に体験してみて初めて
「あの山は大変だった」という話ができる。

すべて、死ぬまで歩くしかない、それまで頑張っていこう、
それしか言っていません。

医学なら、「足に豆ができた。疲れた」
「それなら栄養ドリンクでも飲みなさい」というもの。
山道の行く先なんて、誰も教えてくれません。

政治は、「山道がデコボコで歩きにくい。何とかしてください」というもの。
科学は、「この靴は軽くていい靴ですよ」というものです。
今までよりだいぶ歩きやすくなった、と日進月歩しています。

でも、「なお行く先は 山路なりけり」が変わったということではありません。

そんな中、「死ぬまで歩き続けるのが人生ではない」
「ここで完成ですよ」
「ここに着くまで、しゃがんではならないのですよ」
としっかりと理由を持って言うには、人生の完成がなければ言えません。

そんなのあるわけない、と言う人は、そんな山道を歩くことがいいんだと
肯定するしか生きる道がない人です。

「こういうところがあるから、あるんだ」
そう言われているのが、親鸞聖人です。

親鸞聖人の教えを正確にたくさんの方に伝えられた、本願寺蓮如上人という方は
御文章』の中に、こう記されています。

「聖人一流の御勧化の趣は、信心をもって本とせられ候」
 (聖人一流の章

一念で完成する信心、これ一つを教えていかれたのが、親鸞聖人なのだ
ということです。

親鸞聖人の教えを知っている人というのは、完成のある信心を知っている人のこと。
それを知っている人を浄土真宗と言い、それを知らない人を他門というのだ、
とも言われています。

浄土真宗ならば、一番伝えなければならない、絶対に捨ててはおけない肝要は
この信心のことです。

人生の目的なんて、ほとんどの人は知りません。
みんな人生に卒業なんてない、死ぬまで求道だと思っている。

でも、肝要を伝えずして、なぜ親鸞聖人の教えなのか、
ということになります。

祖師聖人ご相伝一流の肝要を、徹底して教えられる方を「善知識」と言います。
正しい仏教の先生です。
人生には完成がある、と説かれる方です。
死ぬまで求道と説く人は、悪知識です。

親鸞聖人は教えてくださっています。
「善知識にあうことも、教うることもまた難し。
 よく聞くことも難ければ、信ずることもなお難し」

4つとも難しいと言われています。
難しいぞ、難しいぞと、4回連続で言われているんです。

1つ目に「善知識にあうことが難しい」とあります。
それは、そういう方がなかなかおられないからです。
正しい仏教を説く先生は、いないんです。

毎日忙しく働いて、山を越えても、また山。
「何のために生きているんだろう」
「このまま、ずっと山を越え続けるのかな」
そう思うこと、ありませんか?

でも、人生には完成がある、ゴールがあるんです。
「人間に生まれてきてよかった」
「生きてきてよかった」
そう心から思える完成が、生きている今、体験できる。
それが、親鸞聖人の教えられる「平生業成」です。

今、この瞬間に、人生の目的が完成する。
死んでから助かるのではなく、生きている今助かる。
これが、親鸞聖人の教えの肝要です。

その身になったことを、信心決定と言います。
人生の目的達成ということです。

親鸞聖人も蓮如上人も、1人でも多くの人が信心決定できるように
と願われました。

「あわれあわれ、存命の中に皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり」
これが、蓮如上人のご遺言です。

善知識にあえたということは、本当に貴重なご縁です。
40年間、親鸞聖人の教えに答えがあると分かっていながら、
本当の親鸞聖人の教えを説く人がいなくて、やっと善知識にあえた、
という人もあります。

本当は40年どころではない。
多生の間、何度も生まれ変わりを繰り返して、やっとあえたご縁なんです。

人生には、完成があり、ゴールがあります。
それを教えられたのが「平生業成」という言葉です。
今、この瞬間に、人生の目的が完成する。

死ぬまで山を越え続けるのではなく、
「生まれてきてよかった」と心から思える完成がある。
それが、親鸞聖人の教えです。

善知識から、この教えを聞く。
そして、信心決定する。
それが、私たちが目指すべき本当の生きる目的なんですね。




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