「死ぬまで求道」ということが、よく言われますが、
仏教では、死ぬまで完成がなく求め続けなければならないのではなく、
完成したということがあると教えられます。
それを表したお言葉がこちら。
「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。
これを『聞』というなり」
これは、浄土真宗の親鸞聖人のお言葉で、
主著の『教行信証』に記されています。
仏法は聴聞に極まる、だから教えを真剣に聞きなさい
と言われます。
では「聞く」とはどういうことでしょうか?
それが、仏願の生起・本末を聞いて、疑いの心がなくなったこと
これが「聞く」ということ。
まず「仏願」というのは、お釈迦様が仏のさとりを開かれて
涅槃に入られるまでの45年間説き続けられた、たった一つのこと
阿弥陀仏の本願です。
『正信偈』には「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」とありますが、
お釈迦様がこの世に現れられた目的は
ただ阿弥陀仏の本願一つを説くためだったと言われています。
そして「生起・本末」とは、生まれ起こされた本から末まで、ということです。
なぜ阿弥陀仏の本願が建てられたのか。
その本から末までを聞いて、疑いがなくなったことを「聞」というんですね。
本から末までよく聞かないと、早とちりとかで
誤解してしまうことがあります。
仏教を本から末まで正しく聞けばよく分かるのですが、
正しく聞かないと、何を教えられているか、サッパリ訳が分かりません。
たとえば、こんな話で考えてみましょう。
あるところに、とても重い病気で苦しんでいる人がいました。
見るに見かねた人が、その病気を何とか治してあげたいと願いを起こし、
立ち上がります。
色々調査して、実際にその病気を治すことができる医者がいることが分かりました。
その病気をどうすれば治せるか、病気の根元を突き止めた。
けれども、そのままでは治りません。
そこで、医者はその病気が治る薬を完成させました。
その薬は、どこかに飾っておくためではなく、
病人に飲ませるために作られた薬です。
その薬を病人に与えると、病気が全快しました。
病気が治ると、病気を治してくれたその医者に
お礼を言わずにいられなくなりました。
こういう話は、本から末まで順番に聞けば、誰でも分かります。
「本」は、とても重い病気で苦しんでいる人がいた。
「末」は、病気が治ってお礼を言う。
これが本末です。
世の中には「本末転倒」という話があります。
ある人がとても重い病気にかかりました。
いつも笑顔でにこやかに、暗い顔をできない病気にかかってしまったのです。
好きな人にフラれても、仕事がうまくいかなくても、暗い顔ができない。
見るに見かねたあなたは、その人に喜怒哀楽を与えたい。
どうしたら病気を治せるか。
医学部に通って、原因を突き止め、治す薬を作りました。
その薬を与えたら、その人は顔面笑顔病から全快しました。
仕事でミスをすると落ち込み、
好きな人にフラれたら、もっと落ち込むようになりました。
そして「ありがとうございました」とあなたにお礼を言いました。
ところが、本末転倒するとこうなります。
「ありがとうございました」と言うと、顔面笑顔病が治った。
治って気がつくと、薬ができていた。
すると医者が出てきた。
医者が出てきたので、病人が現れた。
こういう話では、訳が分かりません。
物事は、本から末まで正しく聞かなければ分からないんですね。
仏教の話も、本から末まで正しく聞かないと分かりません。
末から本に聞いたり、少し聞いただけでは
とても分からない。
では、この話を仏教に当てはめると、どうなるでしょうか。
病人というのは、すべての人のこと。
仏教を説かれた本は「私」がいたからです。
「私」がいたから、仏願が起こされました。
どんな私かといえば、病気の私です。
病気といっても、頭痛とか腹痛といった肉体の病気ではなく、心の病気です。
心の病気というと、精神科を連想するかもしれません。
世間で起きる恐ろしいニュースでも、精神の病気が絡んでいることがあります。
でも、ここでいう心の病とは、そういうことではありません。
古今東西のすべての人が等しくかかっている病気です。
その心の病のことを、本願寺の蓮如上人は
「無明業障の恐ろしき病」と『御文章』に教えられています。
正しくは「無始よりこのかたの無明業障の恐しき病」とあります。
ただの病気ではないと思いますが、とても恐ろしい病気です。
始まりのない始まりから、ずっと私たちを苦しめてきた病気なんですね。
恐ろしい病気といえば、たとえばガンのようなものです。
進行するまで自覚症状がほとんどなかったりします。
ガンは場所にもよると思いますが、初期の段階では
ほとんど自覚症状がないみたいです。
体には悪性腫瘍ができているのに、かなり進行するまで分からない。
でも、相当進行してから分かっても手遅れということもあります。
だから恐ろしいんですね。
早期に発見して、早期に治療すれば治る病気でも、
放っておくと手遅れになります。
無明業障の恐しき病は自覚症状がありません。
それが恐ろしいと言われる理由です。
これに気づく人は、ご縁の深い人。
普通はなかなか気づきません。
この病気というのは、私たちの苦しみの根元である「心の闇」のことです。
この無明業障の恐しき病には、症状があります。
肉体の病気にも症状がありますよね。
風邪だったら、発熱とか咳とか、くしゃみ、嘔吐、腹痛などです。
では、この無明業障の恐しき病の症状はというと、
お釈迦様は、漢字四字で教えられています。
「有無同然」(大無量寿経)
有無同然というのは、何かがあってもなくても
苦しみ悩んでいることには変わりがない、ということです。
お経の次のところには「有田憂田 有宅憂宅」と説かれ、
田んぼがあれば、田んぼがあることを憂い、
家があれば、家を憂う。
牛や馬、家畜、お手伝いさん、お金、財産、着るもの、食べるもの、家具や調度類。
そういうものがあれば、どれほど幸せに生きていけるだろうと思うけれど、
欲しかったものが手に入ると、それが苦しみの種になるんですね。
憂いとは、不安や心配、悩みや苦しみといった、私たちの心のこと。
お金がなければないで心配。
あったらどうかというと、ポケットに入れるのも不安になります。
マイホームが欲しいと思ったら、だいぶ日数も時間もかかるし、大変です。
では家が建ったら、憂いがキレイさっぱりなくなるでしょうか?
年が経つにつれて、狭いな〜とか、古くなってきたな〜とか。
足腰の具合が悪くなってくると、階段をのぼれなくなったり。
火事や災害で焼けたり、壊れたりと、あればあったで不安なんですね。
結婚して子どもを持つ人もありますが、子どもはある意味、幸せな気がします。
夫婦の間に子どもが入って、幸せをつなぐ。
子どもがいない人にとっては「子どもがいたら、どんなに幸せだろう」と思います。
でも、子どもがあればあったで、別の苦しみがあります。
お釈迦様がおられた当時、マガダ国の王夫妻には子どもがありませんでした。
権力者にとって、子どもがいないというのは大変なことです。
心から子どもを願って、ついに待望の子どもを持つことができましたが、
子どもを持つと、その子どものために相当苦しんだんですね。
その話が有名な「王舎城の悲劇」です。
たとえば、病気の人に山海の珍味を振る舞っても、
少しも美味しく味わえません。
それは食べ物が悪いわけではありません。
病気だからです。
心が重い病におかされているから、どんな幸せも味わえないんですね。
端から見れば、キラキラ輝いて素敵と言われる人でも
実際は苦しんでいたりします。
日本人初のノーベル文学賞に輝いた川端康成は
ガス管をくわえて自殺しています。
なぜ自殺したのでしょうか。
ひとたびノーベル文学賞を取ると、そのあとに書く文章はすべて
「ノーベル文学賞作家」として見られます。
そんな作家が、たわいもない幼稚な文章は書けません。
川端康成は、そのプレッシャーで書けなくなりました。
ノーベル文学賞作家が書いた文章と聞けば、人々は注目します。
それで自殺してしまったんですね。
日本の成功者といえば、豊臣秀吉か徳川家康かと言われます。
その秀吉は、晩年に大阪の街を作り替えました。
なぜかというと、自分の命を守るためです。
それほど、戦々恐々と怯えていたということです。
藤吉郎と名乗っていた時代は、田んぼの真ん中で寝転んでいてもよかったのに、
太閤という高い身分になったので、命を付け狙われました。
徳川家康は
「人の一生は、重荷を背負うて遠き道を行くがごとし」
と辞世を残しています。
家康の総資産は2兆円と言われ、
現代でも徳川の埋蔵金がどうとかという話もあります。
使い切れないほどのお金を持っていても、苦しみはなくならないということです。
有る苦しみは分からないという人もあると思いますが、
そこはかとなく分かります。
人は一生、何をしているかといえば、
無から有への努力、ということができます。
ところが、有無同然だったら、一体その努力とか苦労は
何のためなのでしょうか?
歴史を振り返れば、現代の部屋に普通にある
テレビや冷蔵庫、エアコンといったものは、ほとんど存在しませんでした。
こういうものがあればどうかと研究して、色んな便利なものが溢れました。
でも、溢れた中で、どれだけ心が満たされたでしょうか?
心が病気だから、どれだけあっても幸福になれない。
飛び立った飛行機は、やがて必ず燃料が切れます。
どこへ向かって飛んでいるのか。
必ず墜落しなければならない飛行機に乗っているなら
1億円持っている人と、搭乗券1枚持っている人と
何か変わるでしょうか。
これが有無同然という症状です。
仏法を説かれたのは、そういう病人がいたからです。
その病気を放っておけないと、医者が現れました。
その医者にあたるのが、阿弥陀仏という仏様です。
その病気を何とか治してやりたいと現れられたのが、阿弥陀仏なんですね。
その阿弥陀仏が、無明業障の恐しき病という
とても重い病気を治す力のある薬を完成されました。
それが「名号」です。
南無阿弥陀仏の六字の名号、この薬を飲むと全快します。
それが「信心決定」です。
薬を飲んだ一念で、病気はキレイさっぱり治りますので、
その嬉しさのあまり、称えずにいられないのが念仏です。
苦しんでいる私がなければ、仏願は建てられなかった。
だから一番大切なことは
仏教では恐ろしい病気にかかっていると説かれているけれど、
本当にそうなのかどうか、ということです。
ここをよく確かめることが大事です。
病気でなければいいのですが、
肉体は健康でも、心はどうでしょうか?
「生まれ難い人間に生まれてよかった」という心の人は
仏教を聞く必要がありません。
心が健康だからです。
物質的にはすごく豊かになったのに、苦しんでいるのは
本人が気づいていなくても、恐ろしい病気を腹底に抱えている証拠だと
よく知ってもらいたいと思います。
私たちは、いつも
「あれがあれば幸せ」
「これがあれば幸せ」
と思って生きています。
もう少し給料が増えれば
昇進すれば
素敵な人と結婚すれば
マイホームを持てば
子どもに恵まれれば、と。
でも、手に入れた時、本当に心から満たされるでしょうか。
新しい心配、新しい不安、新しい悩みが生まれていませんか?
これが「有無同然」です。
あってもなくても、苦しみ悩んでいることに変わりはない。
この症状に気づくことが、仏法を聞くということです。
仏願の生起・本末は
私という病人がいたから、阿弥陀仏という医者が現れた。
その医者が、無明業障の恐しき病を治す薬、
南無阿弥陀仏の名号を完成された。
その薬を飲んだ一念で、病気が治る。
それが信心決定です。
そして、嬉しさのあまり、称えずにいられないのが念仏。
この本から末までを、しっかりと聞いていきましょう。
本末転倒せずに、正しく聞いていくことが大切です。
そうすれば必ず、「よくぞ人間に生まれたものぞ」の
生命の歓喜を得ることができるんですね。