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『The Remembered Soldier』記憶を失った兵士と、物語を与えた妻――戦後フランドルの心理劇

2019年にオランダ語で刊行され、2025年に英訳されたアンイェト・ダーンイェによる長編小説『The Remembered Soldier』(原題:De herinnerde soldaat、記憶された兵士)は、第一次世界大戦後のベルギー・フランドル地方を舞台とする心理的歴史小説である。本作は、戦争中に記憶を失い、戦後に精神病院で暮らした実在のフランス人兵士アンテルム・マンジャンの逸話に着想を得ている。彼の身元確認のために出された新聞広告に対し、多くの女性が「自分の夫だ」「自分の息子だ」と名乗り出たという史実が持つ悲劇性と滑稽さが、本作の中心的な問いを形作っている。

物語は1922年、大戦終結から4年後に始まる。戦場から戻らぬ夫や息子を待ち続ける女性たちの絶望が、時代の基調として提示される。主人公は1918年、メルケム近郊をさまよっているところを発見された兵士である。身分証を持たず、激しい砲撃によるシェルショック(現在でいうPTSD)のために完全な記憶喪失に陥っていた。収容先の療養施設の医師たちは、発見された時刻と場所にちなんで彼を「ヌーン・メルケム」(正午=ヌーン、発見地メルケムに由来)と名づける。

施設は新聞広告を出し、行方不明者を探す家族に呼びかける。多くの女性が訪れるものの、決定的な証拠は得られない。そこに現れたのがジュリエンヌ・コッペンスである。彼女はヌーンこそ8年待ち続けた夫アマンド・コッペンスであり、職業は写真家であると断言する。額の傷跡を根拠に本人確認を行い、医師の慎重な助言を押し切って彼をコルトレイクの自宅へ連れ帰る。そして二人は、失われた結婚生活を再建しようと試みる。

アマンドと呼ばれるようになった主人公は、自らの過去をまったく思い出せないまま、ジュリエンヌの語る物語に依拠して自己像を組み立てていく。夫婦は写真館を再開し、とりわけ戦争未亡人たちの肖像を撮影する日常へと戻ろうとする。しかしアマンドの内面には、塹壕戦の凄惨な記憶の断片が悪夢や意識の「空白」としてよみがえる。死体の下に生き埋めにされるといった光景が断続的に浮上し、ジュリエンヌの語る穏やかな過去像と鋭く衝突する。

やがてアマンド自身、そして読者もまた、ジュリエンヌの語りの真実性に疑いを抱き始める。彼女は事実を語っているのか、それとも戦前の結婚生活を理想化、あるいは再構成し、白紙状態となった夫を起点に「より良い結婚」を作り直そうとしているのか。疑念は物語全体に緊張をもたらし、本作を単なる戦争後日譚から、記憶と物語の構造を問う思索へと押し上げる。

特筆すべきは、その文体である。著者は徹底して主人公の意識内部から世界を描く。アマンドの混乱した精神状態を反映するかのように、極端に長い一文が「そして(and)」という接続詞で連ねられ、思考や感情、夢、現実の断片が途切れ目なく流れ込む。論理的な区切りは曖昧にされ、因果関係や重要度の序列は崩れる。あらゆる出来事が等価の重みで押し寄せるその文体は、読者をアマンドの意識の深層へと引きずり込み、彼の不安やパラノイアを体感させる装置として機能している。

また、1920年代のコルトレイクを再現するために、著者は古い絵葉書や新聞、地図を用いて綿密な調査を行った。作中では、アマンドとジュリエンヌが戦場跡を巡り、写真を撮影して絵葉書にする「戦場観光」(ディザスター・ツーリズム)の萌芽も描かれる。戦争の記憶がいかに商品化され、反復的に消費されていくのかという歴史的現実が、物語の背景として静かに浮かび上がる。

著者アンイェト・ダーンイェは、1965年生まれのオランダの作家・脚本家である。長年にわたり作品を発表してきたが、評価は必ずしも芳しいものではなかった。しかし2019年刊行の本作がフェルディナント・ボルデウェイク賞を受賞し、主要紙で高い評価を受けたことで、一躍注目を集める存在となった。続く『Het lied van ooievaar en dromedaris』(コウノトリとヒトコブラクダの歌)では、オランダで権威あるリブリス文学賞とボーケンボン賞を同時受賞するという快挙を成し遂げている。『The Remembered Soldier』は、2026年国際ブッカー賞のロングリストに選出されている。

翻訳者のデヴィッド・マッケイは、アメリカ生まれで、1997年よりオランダのハーグ近郊に在住している、受賞歴のある翻訳家である。彼はオランダ文学の英語圏への紹介に多大な貢献をしており、ステファン・ヘルトマンスの『戦争とテレピン』の翻訳でも知られている

『The Remembered Soldier』は、戦後という極限状況のもとで生まれる歪な共依存関係を描きながら、より根源的な問いを読者に突きつける。それは、真実そのものよりも、生き延びるために必要とされる物語が存在するのではないか、という問いである。記憶が曖昧であるからこそ、人は物語にすがり、物語によって自らを形作る。本作は、戦争の外傷のみならず、愛と記憶と物語がいかにして人間の存在を構築し直すのかを問い続ける一冊である。

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参考資料:

youtu.be

Anjet Daanje: Longlisted for the International Booker Prize 2026 | The Booker Prizes

THE REMEMBERED SOLDIER | Kirkus Reviews

The Remembered Soldier: Longlisted for the International Booker Prize 2026 | The Booker Prizes

De herinnerde soldaat

 




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