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『The Slip』失踪、ボクシング、そして「なりたい自分」――可塑的アイデンティティの物語

2025年6月に刊行されたルーカス・シェーファーのデビュー長編『The Slip』は、一人の少年の失踪をめぐる謎を軸に、ボクシングという身体的実践と、自己同一性の揺らぎを重層的に描き出す野心的な長編小説である。舞台は主にテキサス州オースティン。物語の精神的中心には、架空の「テリー・タッカー・ボクシング・ジム」が据えられ、時間軸は1998年から2014年に及ぶ。個人の成長と変容が、都市と社会の変貌と響き合う構成となっている。

物語は1998年の夏、マサチューセッツ州ニュートン出身の16歳のユダヤ人少年ナサニエル・ロススタインから始まる。学校で問題を起こした彼は、環境を変えるため、テキサス大学で教える風変わりな歴史学者の叔父ボブのもとへ預けられる。自分の身体にも居場所にも強い違和感を抱くナサニエルは、叔父の紹介で老人ホームのボランティアとなり、そこでハイチ出身の元ボクサー、デイヴィッド・ダリスと出会う。粗野さと魅力を併せ持つデイヴィッドは、彼にとって師であり、同時に理想化された他者となっていく。

ボクシングの訓練を通してナサニエルは自信を獲得し、身体への感覚も変化していくが、その尊敬はやがて模倣と同一化への欲望へと転じる。彼はデイヴィッドの香水を身にまとい、話し方や振る舞いまで写し取ろうとする。一方で、テレフォンセックスサービスで「サーシャ」と名乗る女性と会話する秘密の生活を送り、そこでは25歳のカリブ出身の黒人男性になりすます。虚構の人格を現実にまで延長しようと、日焼けマシンで肌の色を変えようとするなど、自己を作り替える危うい試みを重ねた末、1998年8月、ナサニエルは忽然と姿を消す。

物語は十数年後へと跳躍する。叔父ボブの車のワイパーに挟まれた匿名のメモを契機に、未解決の失踪事件は再び動き出す。以後は群像劇の様相を帯び、ジムと事件を結節点として、多様な人物たちの人生が交錯する。職業的自己像に悩む新人警官ミリアム・ロペス、非正規滞在者としてボクサーの道を模索するアレクシス・セペダ、1990年代末という時代にあって自らのジェンダーに言葉を見出せずに苦悩するX(本名チャールズ・レックス)、白塗りのピエロ姿で国境を越える密入国ビジネスを行う詐欺師エル・パヤソなど、社会の周縁に置かれた人々が物語の前面に浮かび上がる。

本作の中心にあるのは、「アイデンティティは固定された本質ではなく、状況や欲望によって可塑的に変形するものだ」という認識である。ボクシングのロールプレイ、電話越しの演技、名前や肌の色の操作といった仮面は、人が「なりたい自分」へと近づこうとする切実な試みであると同時に、自己が容易に滑り(slip)、別の姿へと移行してしまう不安定さをも示している。

著者ルーカス・シェーファー自身、マサチューセッツ州ニュートンで育ち、デューク大学卒業後に作家を志してブルックリンを経てオースティンへ移住し、テキサス大学オースティン校のMFAプログラムで創作を学んだ。現地のボクシングジムに通い、そこに集う多様な人々の生と空気感に強い影響を受けた経験が、本作のリアリティと厚みを支えている。

題名の「The Slip」は、パンチをかわすボクシングの動作であると同時に、「姿をくらます」こと、さらには自己が別の役割へと滑り移ることを意味する。本作はミステリーでもあり、ボクシング小説でもあり、同時に、周縁に追いやられてきた人々が自らの人生の語り手となろうとする物語でもある。本作は、アイデンティティの不安定さと流動性を通して、人が「自分であること」とは何かを深く問いかけているといえるだろう。

参考資料:

youtu.be

Book excerpt: "The Slip" by Lucas Schaefer - CBS News

Book Review: "The Slip" - An Epic Exploration of the Elasticity of Identity - The Arts Fuse

Literary Hub » Lucas Schaefer on Troubleshooting a Problem Character

 




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