2025年8月に刊行されたギレーヌ・デュナンの小説『Un amour infini』*1は、2025年のゴンクール賞ロングリストに選ばれたことで注目を集めている。物語は1964年6月のテネリフェ島*2での三日間にわたる偶然の出会いを描いており、単なる恋愛小説にとどまらず、主人公の内面と歴史的な文脈を巧みに織り込んだ作品である。
主な登場人物は、まったく異なる背景をもつ二人、ルイーズとナタンである。ルイーズは三人の娘をもつフランス人の主婦で、四十代半ばの女性である。彼女は夫ピエールとともに島を訪れるが、工場爆発の知らせで夫が急遽呼び戻され、初めての海外旅行で一人残される。一方のナタンはハンガリー出身の天体物理学者であり、ブダペストで生まれ、ウィーンやドイツで学んだのち、第二次世界大戦を逃れて1941年からアメリカに亡命している。彼は天文台建設の可能性を探る現地調査のために島を訪れていた。
物語は、三人での夕食のはずが二人きりの出会いとなる場面から始まる。三日間のあいだに二人は島を探索しながら互いに心を通わせていく。彼らの会話は多岐にわたり、戦争中の経験や記憶、宇宙と生命の神秘、そして歴史と倫理に及ぶ。ナタンはユダヤ系ハンガリー人として「人間の計画的破壊」について語る。また、かつてスペインによる征服と植民地化の犠牲となった、テネリフェ島の先住民グアンチェ族の悲劇や、フランコ政権時代の軍事的過去にも言及する。彼は原子力の軍事利用を「道徳的な過ち」と断罪する。このように個人の運命が、土地、記憶、そして複数の歴史的文脈と交差していることが示される。
二人の対話は、知的でありながら官能的な親密さを帯び、やがて互いの内面へと開かれていく。ルイーズはナタンとの出会いによって、世界の見え方が一変し、現実をより広い尺度で感じ取るようになる。一方ナタンは、自身の天体物理学的な知識と、ルイーズが幼い子どもたちの成長を通して培ってきた感性に基づく知識が共鳴することに気づく。異なる背景を持つ二人が、他者との交流を通じて、自己理解を深めていく様子が描かれている。
著者はこの物語を戦後20年、冷戦期の1964年に設定した。それは戦争の記憶がまだ鮮烈に残る時代でありながら、マッカーシズムの圧力からも離れ、登場人物が過去と向き合い、再び前を向いて歩み出そうとする時代である。
本作は、時間の流れを意識的に緩やかにし、現代の絶え間ない即時性や情報過多に対する静かな対抗として構成されている。物語がわずか三日間に限定され、二人の登場人物が世界から隔絶された島の中で立ち止まり、他者や自己と向き合うことは、現代社会に生きる読者に対して立ち止まることの必要性を訴えかけている。
著者ギレーヌ・デュナンは、1950年生まれのフランス人作家である。フランス人の母とスイス人の父のもとで育ち、幼少期から青年期にかけて、パリ、ニューヨーク、バーゼルで過ごした経験を持つ。1989年に『L’Impudeur(奔放)』でデビューし、主人公である語り手が経験する精神的な崩壊と、そこからの回復を描いた『Un effondrement(崩壊)』で、2008年にスイスのミシェル=ダンタン賞を受賞。レジスタンス活動家シャルロット・デルボの伝記的エッセイ『Charlotte Delbo - La vie retrouvée(シャルロット・デルボ—取り戻された生)』で、2016年にフェミナ賞エッセイ部門を受賞している。
『Un amour infini』は、個人の物語を多層的な歴史的悲劇に重ねて描くことで、人間存在の深みを描いている。テネリフェ島という限られた空間と三日間という短い時間の中で、ルイーズとナタンは偶然の出会いを通して、互いの内面に触れ、新しい生き方とより豊かな世界を発見する。この作品が提示するのは、現代社会の喧騒や即時的な加速に抗する、立ち止まることの価値である。他者との真の対話と、過去の記憶に誠実に向き合うことによってのみ、人は自己を深く理解し、未来へと歩み出すことができる。デュナンは、歴史の傷跡を抱えながらも前を向こうとする二人の姿を通して、時間をかけて築かれる絆や経験の尊さを訴えかけている。
※2025年10月時点では、本書は大手ネット書店での取り扱いはないようです。(米アマゾンでKindle・ペーパーバックあり)
参考資料:
"Un amour infini" de Ghislaine Dunant, une rencontre fortuite sur l'île de Tenerife | RTS