2023年にドイツで刊行されたダニエル・ケールマンの長編小説『Lichtspiel(英題:The Director)』は、全体主義体制下における芸術と権力のねじれた関係を主題に据えた意欲作である。ナチス政権下の映画界という歴史的に特異な状況を背景に、ひとりの映画監督が直面する道徳的ジレンマと妥協の過程を通じて、創作と倫理という普遍的なテーマを鋭く問いかけている。
物語の中心となるのは、ワイマール共和国時代に活躍した実在の監督ゲオルク・ヴィルヘルム・パープストである。彼はナチスが政権を掌握した1933年にドイツを離れ、映画の都ハリウッドに身を寄せる。しかし、新天地でのキャリアは順風満帆とはいかず、商業主義に支配されたスタジオ・システムの中で彼の芸術的野心は行き場を失っていく。やがて母親の病をきっかけにオーストリアへ帰国するが、その地もすでにナチスの手中にあり、第二次世界大戦の勃発とともにパープストとその家族はドイツ国内に取り残される。
やがて彼は、ナチスの宣伝機関から映画製作を命じられる。パープストが手がける作品は一見してプロパガンダ映画とは異なり、思想的な露骨さを避けつつも、体制への協力という性格を免れることはできない。とりわけ『パラケルスス』と題された作品は、今日でも映画学校で取り上げられるほどの芸術性を持ちながら、その成立過程には倫理的な葛藤が付きまとう。
小説はこうした状況を、単なる批判や断罪ではなく、複雑な人間像として描いていく。パープストは芸術を通じて時代に抗おうとするが、結果的にはその芸術によって時代に加担してしまう。この自己矛盾が、小説全体に緊張感をもたらしている。彼が政治と芸術の狭間で取り結ぶ「契約」は、まさにファウスト的であり、ケールマンはその姿勢に同情を寄せつつも、決して免罪はしない。
登場人物として印象深いのは、パープストの妻トルーデである。夫の影に従う存在として登場するが、やがて自らの表現を獲得し、内面の声を見つけていく。また息子として描かれる架空の人物ヤーコプは、ナチス思想を自然に吸収する世代として、時代の恐ろしさを体現する存在である。さらに、小説にはパープストの元助手という設定の老いた語り手が登場する。彼の回想は認知症により曖昧で、物語全体に「語ることの不確かさ」と「歴史の記憶の曖昧さ」が影を落とす構造となっている。
物語には、当時のスターだったガルボやブルックス、そして映画監督のリーフェンシュタールといった実在の人物も数多く登場する。彼らはフィクションの中で巧みに位置づけられ、歴史のリアリティと物語性が交錯する。特にリーフェンシュタールの描写は鋭く、政治と芸術の癒着における象徴的な存在として位置づけられている。
構成面では、ケールマンが映画的な手法を意識的に取り入れている点も注目される。短い章立てと視点の切り替えは、まるで編集された映像のようにリズムを生み出し、物語全体に映画的テンポと緊迫感を与えている。これは単なる演出ではなく、映像文化と権力の関係を内在化させた表現手法として機能している。また、登場人物の行動や発言にユーモアや皮肉をにじませることで、全体主義のもたらすグロテスクな日常をリアルに描写している。
物語の一場面には、撮影のために強制収容所の囚人がエキストラとして動員される場面が描かれる。この描写は、芸術の名のもとに非人道的行為が容認されていく過程を象徴しており、主人公の倫理的堕落が決定的となる瞬間でもある。その後の彼の人生は、そのときの選択に暗い影を落とされ続ける。
著者ダニエル・ケールマンは1975年ミュンヘン生まれ。父はテレビ監督、母は俳優という家庭に育ち、幼少期をウィーンで過ごした。その家系にはユダヤ系の背景もあり、家族の一部はナチス時代の迫害を経験している。こうした個人的背景が、彼の作品における歴史と道徳への関心に影響を与えていることは想像に難くない。
ケールマンは『世界の測量』(2005年)や『ティル』(2017年)といったベストセラーで知られ、その作品は40以上の言語に翻訳されている。作家としてだけでなく、劇作家や脚本家、知識人としても精力的に活動しており、現代ドイツ語文学を代表する存在となっている。
『Lichtspiel』は、歴史のただ中にあって芸術に何ができるのか、芸術家は権力とどう向き合うべきなのかを、過去の具体的な事例を通して探究する作品である。決して過去を裁くことに終始せず、今を生きる読者にも考えることを迫る、重層的かつ示唆に富んだ小説である。
▼Rakuten
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参考資料:
The Director (Lichtspiel) - Daniel Kehlmann
The Director by Daniel Kehlmann review – the author’s best work yet | Fiction | The Guardian
'The Director' review: A filmmaker strikes a deal with the devil in Nazi Germany : NPR