2025年6月に出版された『A Different Kind of Power』は、2017年から2023年までニュージーランド首相を務めたジャシンダ・アーダーンの回顧録である。本書は、単なる政治家のキャリアを振り返るだけのものではなく、リーダーシップの新たな定義を問いかけ、共感や優しさが持つ力を強調する内容となっている。
回顧録は時系列に沿って構成され、幼少期や家族との生活から始まり、労働党党首への突然の就任、首相在任中の出来事や個人的な経験が詳細に語られている。
アーダーンが掲げる優しさと共感のリーダーシップでは、政治において優しさや共感が弱さと見なされがちな認識に異を唱え、これらが真の強さとなりうると主張している。自身のリーダーシップは共感を行動と結びつけるものであったとし、特に2019年のクライストチャーチモスク銃乱射事件後の対応では、犠牲者家族を抱きしめ、「彼らは私たちだ」という言葉で国民の心を一つにしたことが、従来の政治的リーダー像とは異なる人間味ある手法として世界的に評価された。
本書の中では、女性首相として経験したインポスター症候群について語っている。自身が常に自信の欠如や自己疑念に悩まされてきたことを率直に明かしているが、これを弱点ではなく、謙虚さ、入念な準備、専門家の意見を求める姿勢に結びつける強みとして捉えている。この自己疑念こそが、思慮深く危機に備えるリーダーへと成長させた要因であったと考えているようだ。*1
首相在任中の母親業についても、在任中に子どもを産んだ世界で二番目の国家元首として、母親業とリーダーシップの両立の困難を赤裸々に描写している。出産後わずか六週間で職場復帰し、生後三ヶ月の娘を連れて国連総会に出席した出来事は、ワーキングマザーにとって象徴的な瞬間であったとされる。彼女は「母親としての罪悪感は決して消えない」と語りつつ、辞任が「母親業が首相にとって困難だった」という誤解を生まないよう慎重に言葉を選んでいる。*2
国家的な危機への対応は、アーダーンの在任期間の中でも注目を集めたハイライトの一つである。クライストチャーチモスク銃乱射事件の際には、わずか27日(議論と可決は10日)で軍用セミオートマチック銃器の禁止を含む銃規制法を成立させ、銃器の買い取りプログラムを実施した。COVID-19パンデミックでは、ニュージーランドの「ゼロ・COVID」戦略を指揮し、国民の命を最優先に守る姿勢を貫いたが、国境封鎖やワクチン義務化をめぐって国内で激しい批判や抗議も受けた。それでも推定二万人の命を救ったとされ、非常に困難な判断だったのである。
首相を辞任する決断については、2023年1月に「タンクに十分な燃料が残っていなかった」と述べ、燃え尽き症候群ではないとしながらも、職務を遂行するために必要なエネルギーと熱意が尽きたことを理由に挙げている。これは自ら政治的キャリアに区切りをつける異例の決断として、彼女の誠実なリーダー像を裏付けるものとされている。そのほかにも個人的なエピソードとして、公衆トイレで批判者に遭遇した話や娘の言語発達のこと、2022年後半に乳房の腫瘤が見つかり癌の可能性があったこと、連立交渉中に妊娠していたことなど、これまで語られてこなかった出来事が含まれている。
ジャシンダ・アーダーンは1980年にニュージーランドで生まれ、警察官の父と学校給食の調理員の母のもとで育った。28歳で国会議員となり、労働党副党首を経て、2017年に37歳でニュージーランド史上最年少の首相に就任した。首相退任後はハーバード大学で共感的リーダーシップの分野で活動を続け、気候変動対策やオンライン上の暴力的過激主義の排除を目指す国際的取り組みにも尽力している。
この回顧録は、その正直さと個人的な洞察、人間味あふれるリーダー像の描写によって高く評価されている。共感的で勇気あるリーダーシップの新たな可能性を示し、多くの読者にとっても希望を与える一冊であることは間違いない。
参考資料:
A Different Kind of Power - Wikipedia
▼本書がナタリー・ポートマンのブッククラブで7月の推薦図書として選ばれました
*1:Oprah and Jacinda Ardern: A Different Kind of Power. the Oprah podcast. 2025.6.3
*2:‘Empathy is a kind of strength’: Jacinda Ardern on kind leadership, public rage and life in Trump’s America. The Guardian. 2025.5.31