2017年にフランスで刊行された『La disparition de Josef Mengele』(邦題『ヨーゼフ・メンゲレの逃亡』)は、フランスの作家オリヴィエ・ゲーズによる小説であり、同年にルノドー賞を受賞した作品である。ジャンルとしてはノンフィクション小説に分類され、ホロコーストおよび第二次世界大戦後の史実に基づいている。
本作は、アウシュビッツ強制収容所における非人道的な行為で悪名高い医師ヨーゼフ・メンゲレが、戦後南米に逃亡し、1979年にブラジルで死を迎えるまでの30年間の逃亡生活を描いたものである。物語は、彼が偽名を使いながら南米各地を転々とし、その過程で味わった恐怖、孤独、没落の人生を追っている。
1949年、メンゲレはアルゼンチンに到着し、当時のフアン・ペロン政権下のブエノスアイレスで新しい人生を築けると信じていた。ペロン政権はナチスやその協力者たちに対して非常に好意的な環境を提供しており、世界もまた当時はナチスの犯罪から目を背けたがっていた。この時期、メンゲレは「ドルチェ・ヴィータ(甘い生活)」と形容される安穏な生活を送り、自らの身元を取り戻すことさえできていた。アルゼンチンには、フランスのヴィシー政権やベルギーのレクシスト党といった、ナチスやファシストの元協力者たちが数多く流入し、国家がこれを受け入れていたのである。
しかし、メンゲレに対する追跡は再び始まり、彼はアルゼンチンからパラグアイへ、さらにブラジルへと逃れることを余儀なくされる。この後の生活は「ネズミの時代」と呼ばれ、各地を転々とし、偽装を重ね、不安と孤独に苛まれる日々となった。とりわけブラジルでは、完全な孤立の中で生きることとなる。
著者は、メンゲレを神話化された「死の天使」や「魅惑的な悪」としてではなく、あくまで一人の人間として描くことに力を注いだ。ゲーズ自身は「メンゲレの頭の中に入り込む」ことはせず、探偵のように彼の30年間の逃亡生活を追ったという立場を取っている。彼が描くメンゲレ像は、臆病で哀れな存在であり、決して英雄的でも異常でもない。著者は、誰かを単に「モンスター」として描くことは、その人物がなぜそうなったのか、あるいはそれを可能にした社会的・政治的構造を理解する妨げになると考えている。
もちろん、ゲーズはメンゲレが「疑いようもなくモンスターのような行為をした」ことを否定してはいない。その一方で、彼がいかに平凡で取るに足らない人間でありながら、制度の後押しによって容易に巨大な悪を実行し得たかを強調している。
メンゲレは最期まで自らの行為を反省することなく、謝罪もせず、自らを「ナチス・ドイツの理想的な兵士」として誇りに思い続けた。こうした信念こそが、精神の崩壊を防ぎ、生き延びるための支えになっていたと考えられる。
本書は「ノンフィクション小説(roman de non-fiction)」という形式を取っており、著者は数多くの資料や証言をもとに、文学的手法で構築された作品を生み出している。歴史的事実や時系列、地理的な設定に忠実でありつつ、心理描写や細部の再現においては創作の自由を一定程度許容している。ゲーズは、メンゲレに関する書籍、学術研究、伝記(1980年代のメンゲレの日記を含む)を精読し、ドイツ、アルゼンチン、ブラジルなどメンゲレが実際に生活していた土地を訪れている。
メンゲレは生前に日記を残しており、その内容は数百ページに及ぶ。そこには不満や苦々しさ、哀れな自分への自己憐憫が吐露されていた。ただし2011年に売却されたため、著者はその文献に直接あたることができなかった。とはいえ1980年代に出版され、最も優れた伝記と呼ばれる書籍(メンゲレの息子が日記をもとに作成に関わったもの)に長い抜粋が引用されており、その内容を読むことで彼の心理状態を理解し、作品に反映させたのである。
さらに、アウシュビッツでメンゲレの助手を務めたハンガリー出身のユダヤ人医師ミクローシュ・ニスリ*1の証言を通じて、ホロコーストの記憶を喚起している。ただし著者自身がその惨劇を描写することには耐えられなかったと語っており、あえて詳細な描写は避けている。
著者オリヴィエ・ゲーズは、1974年生まれのフランスのジャーナリストである。ドイツ国境に近いアルザス地方で育ち、ユダヤ系の家族に囲まれて育った彼は、幼い頃からドイツ文化や戦後ヨーロッパ、とりわけドイツ社会がどのように再建され、個人がどのように新たな人生を始めたのかについて探究している。彼の過去の作品として、ドイツの検事フリッツ・バウアーを取り上げた映画『アイヒマンを追え!ナチスが最も畏れた男』への共同脚本への参加が挙げられる。
本作は『The Disappearance of Josef Mengele』(邦題:『死の天使 ヨーゼフ・メンゲレ』)という題で、ロシア人映画監督のキリル・セレブレニコフにとって初めてのドイツ語作品として映画化され、2025年のカンヌ映画祭で発表された。ヨーゼフ・メンゲレ役をアウグスト・ディール、妻のマルタ・メンゲレ役をフリーデリーケ・ベヒトが演じている。
『La disparition de Josef Mengele』がメンゲレを神格化せず、あくまで凡庸な悪として描き切った点は多くの読者に評価されている。法的な裁きを免れた人間が、最期まで心の平安を得ることができなかったという事実を通じて、「逃げおおせた者」にもまた、別の形の裁きが存在することを本書は暗示しているのである。
参考資料:
La Disparition de Josef Mengele, Olivier Guez (par Stéphane Bret)
'The Disappearance of Josef Mengele' Review: Nazi Study Lacks Dimension
*1:ニスリの物語は『灰の記憶』(2001年)や『サウルの息子』(2015年)などの映画でも取り上げられている