2023年に刊行された『قناع بلون السماء』(英題 A Mask, the Colour of the Sky、日本語意訳「空色の仮面」)はパレスチナ人作家バセム・ハンダクジ(Bassem Khandakji)による小説である。彼は2004年以来、イスラエルの刑務所に収監されており、獄中から作品を発表している。本作は、2024年の国際アラビア語フィクション賞(IPAF、通称アラビア語ブッカー賞)を受賞したことで、世界的な注目を集めている。
物語は、ラマラの難民キャンプで暮らす若きパレスチナ人考古学者ヌールを主人公として展開される。歴史と考古学に情熱を燃やすヌールは、ダン・ブラウンの『ダヴィンチ・コード』に匹敵するような、マグダラのマリアに関する歴史的真実を描いた小説を書くことを夢見ている。しかし、マグダラのマリアに関する歴史的資料の乏しさや、占領下の難民としての制約によって、研究は難航している。
ある日、ヌールは古着市場で購入した古いコートのポケットから、偶然にもイスラエル市民である「オール・シャピラ」名義の身分証明書を見つける。「オール」はヘブライ語で「光」を意味し、これはアラビア語の「ヌール」と対応している。アシュケナージ系ユダヤ人に似た容姿のヌールは、この身分を「仮面」として借りることを決意する。
占領者である「オール」という仮面をかぶることで、ヌールはパレスチナ人としては制限されていた移動の自由を手に入れ、考古学的遺跡へのアクセスを得て、シオニズムの思考を理解しようとする。パレスチナ人の仲間たちの助けを得て、偽の経歴を作り上げ、入植地で行われるイスラエルの考古学発掘チームに参加することに成功する。これによって、マグダラのマリアの歴史に関係する場所に近づき、自分の小説の資料を得ようと試みる。
やがて、オールという人物を演じる日々は、ヌールの内面に大きな影響を及ぼし、自分と他者の間で深いアイデンティティの葛藤が生まれる。物語では、ヌールとオールの間の内なる対話としてこの内的葛藤が描かれる。発掘隊での経験を通じて、ヌールは占領下の現実や、占領する側の社会の複雑さにも気づいていく。
小説の構成は多層的かつ実験的であり、投獄された友人ムラード(しばしば作者自身の分身とも解釈される)に宛てた音声メッセージの形で、ヌールの感情、希望、不安、占領や植民地主義への考察が語られる。また、小説のために集めたマグダラのマリアに関する神話や歴史の調査も組み込まれ、物語は現代の時間軸と歴史的背景、2021年のシェイク・ジャラ地区での出来事*1などと交差しながら進む。物語は三人称視点と、ヌールの一人称による録音メッセージの視点が交互に現れ、しばしばメタフィクション的な手法(自らの執筆過程を語る)も含まれる。
物語は終盤にかけて、ヌールが最終的に「オールという仮面」を脱ぎ、真の自分を取り戻せるのかという問いへと収束していく。
著者のバセム・ハンダクジは、1983年にヨルダン川西岸地区北部の都市ナブルスで生まれた。ジャーナリズムを学んでいた大学最終学年の2004年11月2日にカルメル市場で発生した爆弾テロを幇助した疑いで逮捕され、終身刑3回の判決を受けている。それ以来20年間イスラエルの刑務所に収監されているが、収監後も執筆活動を精力的に続けている。本作は、過去と現在を組み合わせた、彼の3部作の最初の作品にあたる。著者の作品の多くは、兄のユーセフや他の協力者たちによって刑務所の外に持ち出され、出版されている。多くの「獄中文学」が刑務所での体験を描くのに対し、彼は主に刑務所の外の世界や、歴史的・知的なテーマについて執筆している点が、彼の作品を他と異ならせている。
本作は刑務所内での点呼や騒音が始まる前の、午前5時から7時までの1日2時間に集中して書かれ、約6ヶ月をかけて完成した。過去に書いたものが没収された経験から、執筆中も没収の危険を感じていたという。本作は三部作のうちの最初のものとして位置付けられており、続く作品として第二部『サーダン・アル=マフルカ』(日本語意訳「焼却炉の守り人」または「ホロコーストの神官」)、第三部『シャヤーティーン・マリヤム・アル=ジャリリー』(日本語意訳「ガリラヤのマリアの悪魔たち」)が執筆予定であるとされている。
『A Mask, the Colour of the Sky』は、作者の過酷な状況下で生み出されたという事実そのものが持つ重みと象徴性を抜きにして語ることはできない作品である。本作が提起するアイデンティティ、歴史、抑圧、自由といった普遍的なテーマは非常に重要である。特に、占領者であるイスラエル側の視点を通して自らの存在を見つめ直すという試みは、植民地主義やアイデンティティの喪失という問題を深く掘り下げている。
※本作は2025年5月時点で英訳版は発表されていません
参考資料:
Basim Khandaqji wins top Arabic literary award from behind prison bars | Al Majalla
Europa Editions To Publish Basim Khandaqji's 'A Mask' in English