2018年に英訳されたドメニコ・スタルノーネの小説『Trick』(原題:Scherzetto 2016年)は老境に差し掛かった画家の日常と彼の四歳になる孫との数日間の交流を描いた物語である。本書には老いゆくことの不安、過去との対峙、そして揺らぎ続ける自己というテーマが潜んでいる。イタリア語から英語への翻訳を、自身も小説家として高い評価を得ているジュンパ・ラヒリが手掛けている。
物語の主人公は70代のイラストレーター、ダニエレ・マッラリコ。彼はミラノに長年住んでいるが、娘夫婦が学会で数日間ナポリを離れるため孫のマリオの世話を頼まれる。ダニエレにとってナポリは彼が少年時代を過ごした故郷でありそのアパートには過去の記憶が色濃く残っている。手術からの回復があまり進まず、仕事の依頼も滞っているダニエレは気が進まないながらもナポリへと向かう。
到着したナポリでダニエレを待ち受けていたのは生意気でませた四歳の孫マリオだった。マリオはストーブの点け方食卓の準備テレビのリモコン操作など幼いながらに驚くほど手慣れた様子を見せる。一方のダニエレは自身の記憶力や体力の衰えを感じ焦燥感を募らせている。かつては成功したイラストレーターであったダニエレだが近年は自身の才能が衰えつつあると感じている。彼はヘンリー・ジェイムズの短編『The Jolly Corner』(邦題:にぎやかな街角)の豪華版のイラスト制作という重要な仕事を抱えているがなかなか筆が進まない。
スタルノーネはこの祖父と孫の間の時にユーモラスで時に緊張感のあるやり取りを通して、老境に直面した人間の内面の葛藤を描き出す。ダニエレはマリオの「知ったかぶり」な態度に苛立ちを覚えながらも、その行動力の裏にある純粋さや賢さに複雑な感情を抱く。一方のマリオもまた気難しく時に意地の悪い祖父の言動に戸惑いながらも彼なりに祖父との関係を築こうとしていく。
物語はダニエレが自身の過去の記憶と向き合う過程とも深く結びついている。故郷ナポリのアパートで過ごすうちにダニエレは自身の青春時代抑圧してきた感情や、捨て去ってきたかもしれない別の人生の可能性を想起する。ジェイムズの『The Jolly Corner』では主人公が長年離れていた故郷の家に戻りもし自分がその場に残っていたらどうなっていただろうかという自身の「亡霊」に取り憑かれる。スタルノーネの『Trick』もまたこのジェイムズの短編と共鳴し、ダニエレ自身の過去の「亡霊」との対峙を描いている。
物語の展開において重要な役割を果たすのがナポリという都市そのものの存在である。活気に満ち時に暴力的で情熱的なナポリの雰囲気はダニエレの過去の記憶と結びつき彼の内面に深く影響を与える。方言や独特の人間関係を通して描かれるナポリの描写は単なる舞台設定ではなく物語の重要な要素として機能している。
物語は三つの章に分かれ短期間の出来事を描きながらも読者に深い印象を与える。物語の中盤ダニエレは自身の生い立ちや周囲の社会に染まらないために払った多大な努力について語り始める。この告白は彼の抱える怒りや攻撃的な態度、あらゆる瞬間を過剰に分析的に捉える傾向の根源を暗示している。
そして物語は祖父と孫の関係性を軸とした感情的な緊張感に満ちたクライマックスへと向かう。バルコニーというかつてダニエレの母親が恐れていた場所が重要な舞台となる。ちょっとしたいたずらがきっかけで、ダニエレは凍えるような雨の中バルコニーに閉じ込められ、パニック発作を起こしてしまう。一方温かい部屋の中にいるマリオは祖父を外から見ている。この危機的な状況の中でマリオの機転によって事態は打開され二人の間には不思議な連帯感が生まれる。その後、祖父と孫は温かいシャワーを浴びながら喜びを分かち合い、この瞬間ダニエレは自身の傲慢さを認識し孫への感謝の念を抱く。
ドメニコ・スタルノーネは1943年ナポリ生まれローマ在住の小説家である。これまでに13のフィクション作品を発表しており『First Execution』(2007年)『Ties』(2014年, 邦題:靴ひも)、『Trust』(2019年)そしてイタリアで最も権威のある文学賞であるストレーガ賞を受賞し2024年の国際ブッカー賞のロングリストにも選ばれた『The House on Via Gemito』(2023年)などが代表作として挙げられる。
ジュンパ・ラヒリはピューリッツァー賞受賞作家であり『Interpreter of Maladies』(邦題:停電の夜に)『The Namesake』(邦題:その名にちなんで)『Unaccustomed Earth』(邦題:見知らぬ場所)『The Lowland』(邦題:低地)などの小説の著者である。近年では言語とアイデンティティの探求である『In Other Words』(邦題:べつの言葉で)や自身のイタリア語学習の経験を綴った作品も発表している。また翻訳家としても活躍しておりスタルノーネの『Ties』『Trust』そして本書『Trick』の英訳を手掛けている。
『Trick』は老いという避けられない現実、家族との複雑な繋がりや、捉えどころのない自己という普遍的なテーマを深く掘り下げた作品である。一見すると穏やかな日常を描いた物語でありながら自身の人生やアイデンティティについて考えさせられる一冊だ。
参考資料:
Trick by Domenico Starnone review – a compelling tale of calamity | Fiction | The Guardian
Why Jhumpa Lahiri loves translating Italy's 'finest living writer'