2014年にベイルートで発表されたイブティサム・アゼムの小説『The Book of Disappearance』(日本語意訳 消滅の書)は、「もしイスラエル国内のすべてのパレスチナ人がある日突然、痕跡もなく消えてしまったら何が起こるだろうか?」という、強烈な問いを核に据えた作品である。本書は2019年に英語版が出版され、2025年の国際ブッカー賞ロングリストに選ばれた作品である。
物語の舞台は現代のヤッファとテルアビブ都市圏である。主人公は、イスラエルのパレスチナ市民であるアラアと、彼の友人であるユダヤ系イスラエル人のアリエルだ。ある日アラアを含むパレスチナ人全てが突然失踪し、残されたアリエルはアラアの遺した日記を発見する。その日記には、ナクバ(1948年のイスラエル建国に前後して故郷を追われた75万人のパレスチナ人が難民化した出来事)の生存者であるアラアの亡き祖母の記憶が綴られており、それはアリエルの持つリベラルなシオニストとしての信念を揺さぶるものだった。アラアの不在という危機的な状況が展開する中で、アラアの家族の記憶は、アリエルとの間で静かな対話を繰り広げることになる。
本書は、アラアの視点と、アラアの日記を読むアリエルの視点が交互に語られる形で進行する。アラアの日記は、彼の祖母、通称「タタ」との思い出を中心に構成されている。タタは1948年のナクバで故郷ヤッファを追われた経験を持つ女性であり、彼女の語る過去のヤッファの姿は、現在のアラアが生きる変貌した街並みとの鮮明なコントラストを描き出す。タタの言葉には、故郷への深い愛着と、失われた人々への切ない想いが溢れており、それはアラアのアイデンティティの根幹を形成している。
一方、アラアの失踪後、彼の部屋に住み始めたアリエルは、日記を通してこれまで知ることのなかったパレスチナ人の経験、特にナクバの悲劇に触れることになる。アリエルはリベラルな知識人として自らを認識していたが、アラアの日記に記された祖母の生々しい証言は、彼自身の持つイスラエルという国家に対する認識を根底から揺るがす。アラアの不在が、アリエルの中でパレスチナ人の存在を否応なく意識させ、彼自身の内面にも変化をもたらしていく過程が、本書の重要な焦点の一つとなっている。
本書の特筆すべき点は、「消滅」というテーマが多層的に描かれていることだ。物語は、アラアの祖母の自然な死という個人的な「消滅」から始まる。次に、1948年のナクバによってヤッファの人口が激減したという歴史的な「消滅」が語られる。そして、物語の根幹となる、パレスチナ人全体の突然の失踪という、ありえないはずの「消滅」が提示される。さらに、街路の名前、家族の歴史、言語といった、パレスチナの文化的記憶そのものが徐々に「消滅」していく様子も描かれている。これらの様々なレベルの「消滅」が共鳴し合い、読者に深い問いを投げかける。
ヤッファという都市そのものが、本書においては重要な役割を果たしている。失われたパレスチナの記憶を体現する存在として描かれるヤッファは、アラアにとっての故郷であり、アイデンティティの拠り所である。一方、イスラエルによって建設されたテルアビブはヤッファを内包する行政単位であり、ヤッファの過去を覆い隠すように存在する都市として描かれ、二つの都市の関係性は、歴史の断絶と記憶の衝突を象徴している。
著者のイブティサム・アゼムは、ニューヨークを拠点に活動するパレスチナ人小説家、ジャーナリストである。彼女は、母親と母方の祖父母が1948年にヤッファから国内避難民となったヤッファ近郊で生まれ育った。フライブルク大学でイスラム研究の修士号を取得し、ドイツ文学と英文学を副専攻とした後、ニューヨーク大学でソーシャルワークの修士号も取得している。彼女はこれまでにアラビア語で『The Sleep Thief』(2011年)と、本書『The Book of Disappearance』(2014年)の2作品を発表しており、本書はドイツ語、英語、イタリア語に翻訳されている。三作目の初の短編集『City of Strangers』は2025年夏の出版予定だ。
『The Book of Disappearance』は、読者に安易な答えを与えず、歴史の記憶、喪失の痛み、そして共存の可能性について深く考えさせる。パレスチナ人の消滅という衝撃的な設定を通して、パレスチナの現実の一端に触れ、他者の不在と存在の意味を改めて問い直す作品と言えるだろう。
▼参考資料
・YouTube The Book of Disappearance by Ibtisam Azem with Marcia Lynx Qualey | Palestine Writes 2020
・The Book of Disappearance: Longlisted for the International Booker Prize 2025 | The Booker Prizes