2023年11月に発売されたポール・オースターの小説『Baumgartner』は、愛、記憶、そして喪失という普遍的なテーマを、老境に差し掛かった哲学教授の視点から描き出した作品である。この作品は、著者自身の人生経験と深く結びついており、複雑で多層的な構造を持っている。
物語の中心となるのは、主人公のシーモア・テクムゼ・バウムガートナーである。彼は、プリンストン大学で哲学を教える70歳の教授であり、およそ10年前に最愛の妻アンナを亡くしている。物語は、彼が自宅で過ごす日常の一コマから始まる。朝食の準備中にコンロにかけたままにしていた鍋を焦がしてしまい、その鍋で火傷を負う。次に掃除婦の娘からの電話で彼女の父親が仕事中に指を2本切断したというショッキングな知らせが飛び込んでくる。さらに宅配便の配達員が訪ねてきたり、メーターの検針員が来たりと、立て続けに訪問者が現れて、彼の行動や思考が何度も中断される。そして検針員を地下室に案内しようとした際に、階段から転倒し膝を負傷するという、一連の不運に見舞われる。
これらの出来事は、彼の記憶を深く掘り下げるきっかけとなる。彼は、妻アンナとの出会い、結婚生活、そして彼女の突然の死を回想する。アンナは翻訳家であり詩人でもあり、その才能は、主人公が彼女の未発表の原稿を整理する中で、再び光を放つ。彼はアンナの残した詩や自伝的な文章に触れることで、まるで彼女の声が紙面から聞こえてくるかのように感じる。
彼はまた、自身の家族史にも思いを馳せる。特に、母親の旧姓であるオースター家(意図的に著者の姓が使われている)の歴史、そして祖父の故郷であるウクライナのイヴァノ=フランコフスクへの旅は、彼のアイデンティティを形成する上で重要な要素となる。主人公はこの旅行で出会ったラビから第二次世界大戦直後のある逸話を教えられる。ラビは、1944年7月にソ連軍がナチスからこの街を解放した際、ドイツ軍と残っていた非ユダヤ系の住民が街を放棄し、代わりに数百、あるいは数千匹のオオカミが街を占拠したと語る。ある出来事が真実として受け入れられるためには、本当に起こったことでなければならないのか。それとも真実であると信じることで、たとえそれが起こっていなかったとしても、真実になるのか。この伝説は、物語の真実性とは何かという問いを投げかけている
物語の後半では、主人公の人生に新たな出会いが訪れる。彼は、アンナの詩の研究を希望する若い大学院生ベアトリス・コーエンと出会い、彼女との交流を通して、新たな希望を見出す。また、長年交際している16歳年下の同僚ジュディスとの関係も描かれるが、こちらは必ずしも順風満帆とはいかない。
『Baumgartner』は、物語の中にさらに物語が入れ子構造になっているのが特徴である。主人公自身の回想だけでなく、アンナの詩や自伝、そして彼が書いている寓話的な物語が、物語の進行を豊かにする。特に、アンナの作品は、彼女の生きた証として、物語に深みを与えている。
著者のポール・オースターは自分が癌に侵されている自覚を持ちながら、本書を完成させたそうだ。主人公バウムガートナーと著者自身が、本書の中で自身の老いと向き合い、人生の終末について思索する姿を読者は追体験できるだろう。オースターの晩年の境地を示すと同時に、彼の作家としての生涯を総括する作品であることは間違いない。