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「スピノザと表現の問題」第4章

 聖トマスによれば、神に帰せられる諸性質は神的な実体と被造物との間の形式の共通性を何ら含意していないが、ただアナロジー、つまり、釣合いあるいは比率の「一致」のみを含意しているのである。神はあるときは被造物において外在的にとどまる完全性を形式的に所有し、また他のときには被造物に形式的にふさわしい完全性を優越的に所有する。ところで、スピノザ主義の重要性は、ここではその問題を転覆させる仕方によって判断されなければならない。アナロジーで処理するたびごとに、われわれはある種の性質を被造物から借用して、それを多義的な仕方であれ、優越的な仕方であれ、神に帰属させる。かくて神は意志と知性、善良さと英知をもつことになる。ただし多義的にあるいは優越的にである。アナロジーは多義性なしにも優越さなしにも済ますことができない。そしてこのことによって素朴な神人同形説と同じくらい危険な、微妙な神人同形説を含むことになる。当然、三角形がもし話すことができれば、神が優越的に三角形であるということになろう。アナロジーの方法は神と被造物に共通な形式があることを否定する。だが、この方法はそれが告発する危険を逃れるどころか、被造物の本質と神の本質とを絶えず混同する。それはあるときは事物の諸性質を神にのみ内在的にふさわしい諸規定に還元して、事物の本質を消し去ってしまう。また他のときには、それは被造物が形式的に所有するものを優越的に神に帰すことによって、神の本質を消し去ってしまう。逆に、スピノザは被造物と神との間の形式の同一性を肯定するが、本質のあらゆる混同を禁じているのである。

 スピノザの方法は抽象的でもアナロジー的でもない。それは形式的な、共通性に基づいた方法である。それは共通概念によって行われる。ところで、共通概念についてのスピノザの理論はまさに属性のこのような規定のうちにその原理を見出している。隠れた理論としてのこの方法に結局名前を与えねばならないとすれば、人はそこに一犠牲の偉大な伝統を容易に認めるであろう。多義性、優越性そしてアナロジーの三つの概念に対する不断の戦いがそこに見出されないならば、スピノザの哲学は部分的に理解不可能なものにとどまると思われるのである。諸属性はスピノザによれば一義的な有の諸形式である。そしてそれらの形式は、「主語」が代わっても、すなわち、無限の有と有限の有とに、実体と諸様態とに、神と被造物とにそれらの形式を述定しても、その本性を変えることはない。
諸属性は無限の有の諸形式であり、無制約的で、究極のそして還元不可能な形式的な根拠である。これらの諸形式はそららがその本質を構成している神にとって、またその固有の形式においてそれらを内含している様態にとって共通である。諸属性は無制約的な性質を表現する言である。そしてこれらの性質は有限の限界のうちに包含されているものとして存在する。諸属性は神の表現である。神のこれらの諸表現は一義的であり、それらは能産的自然としての神の本性そのものを構成し、また諸事物あるいは所産的自然の本性のうちに包含される。そして所産的自然はある仕方で今度はそれらの表現を再表現しているのである。

 従って、スピノザは表現と特質とを区別することができた。出発点はアリストテレス的である。つまり、特質とはある事物に属するものであるが、その事物が何であるかを決して説明しない。神の特質は決して説明しない。神の特質はそれゆえ単に「形容詞」であり、それはわれわれに実体的に何ものも認識させない。神はそれらなしには神ではありえないであろう。だがそれらによって神であるのではない。
 全知、偏在は(思惟、延長という)一定の属性についていわれる特質である。じっさい、あらゆる属性が実体の本質を表現し、おのおのの属性が実体の一つの本質を表現する。だが、特質はなにも表現しない。それはただ形成された本質の様相のみを形成する。無限は実体の特質である。すなわち、実体の本質を構成するおのおのの属性の様相である。全知は思惟する実体の特質である。諸特質は正確にいえば、それらが表現的でないというまさにその理由で、属性ではないのである。




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