いつか見ようと思っていたアニメを観た。『グラスリップ』というやつ。2014年に放送されたものらしいので、もう10年以上前のものということになる。10年以上前になぜこれを観たいと思ったのかも、今日、なぜこれを観ることにしたのかも、よくわからない。
理由はわからないが、これを観ようと思っていた自分がいて、それを実行した自分がいた。人が生まれて死ぬのと同じだ。
世間では何かを観たら、感想を書くのが流行っているらしいが、わたしが語れることがあるだろうか。なんせ10年も前のものだ。すでに語り尽くされているという感がある。そこに今日観たばかりの人間が何かを言ったとて、それはすでに語られたことなんじゃないかなと思う。
でもまあ、自分のために自分の思ったことをのこしておくことには意味があるだろう。わたしは何を思ったのだろう。これを観ながらずっと思っていたことがひとつ。なんだかいい本を読んでいるみたいだ、ということ。いい本というのは、「いい時間」を体験させてくれる本のことだ。
いい本というのは、そのなかに「いい時間」があるような本です。読書といういとなみがわたしたちのあいだにのこしてきたもの、のこしているものは、本のもっているその「いい時間」の感覚です。本のある生活、本のある情景はこころにくいという感覚がおたがいのあいだにたもたれるようでないと、社会の体温が冷えてしまう。
今日、揺らいでいるのは、本のあり方なのではありません。揺らいでいるのは、本というものに対するわたしたちの考え方であり、「本という考え方」が揺らぐとき、揺らぐのは、人と人を結び、時代と時代を結ぶものとしての、言葉のちからです。1
わたしはそれを観ているとき、それぞれの登場人物の時間を、自分の中に植え付けられているような気がして、それがなんだか心地よかったんだと思う。植え付けられている、というとちょっと違うような気がする。
でもそうだな、「いい時間」だったんだ。この作品世界は夏で、いまわたしが生きているこの時間も夏。もっとも、まだ夏というには早い時期なのかもしれない。まだ梅雨明けしていないものな。今年の梅雨明けは早いみたいだけど。でも今日も夏みたいに暑くて、そんな中、ある夏の風景を見た。物語の登場人物とともにひとつの夏を共有した。そうだ、夏を共有した。そんな感覚。こんなことしかいえないがまあ、とにかく、よかったんだ。けっこう評判よくないみたいだけど、わたしには好きな作品だった。
しかしあれだな、長田弘繋がりで、この作品の賛否というのも「本という考え方」の揺らぎによって説明できるんじゃないかと思ったり、思わなかったり。本という考え方が揺らいでいる、と長田弘は言っていた。本というのは本来、それを読んだり読まなかったりすることによって、そこにある時間や経験を手に入れるためにあるんだってさ。でもそれが揺らいで、今では本に求められるのがそこにある情報ってことになっているんだと。「読書のための読書」と「情報のための読書」。これらはそれぞれ「育てる」文化と「分ける」文化に対応していて、生産と物流とか、努力と享受とかにたとえられていた。そういえば、だいぶ前に『映画を早送りで見る人たち』という本を読んだっけ。この本についてはあまり覚えていないけれど、映画を早送りで見るという行為はとても象徴的だと思うな。そういう人が若い世代で増えているらしくって、本と映画という違いはあるけれど、享受すること、それもより多く、より効率よく消化していく、そんな姿勢で作品に挑む流れが強くなってきているのかな、なんて。もしかすると『グラスリップ』は「人類には早すぎた作品」なんかじゃなくて、むしろ「人類には遅すぎた作品」といってもいいのかもしれない。って、これはなんだか空想を進めすぎたかな。
まあ、人類にとって早すぎたとか遅すぎたとか、文化うんぬんとか、そんな大それた話はいいや。もっと頭のいいひとに任せよう。とにかく、わたしにはいい作品だったんだ。それまで見たことないはずなのに、どこか懐かしいというか、自分の大切なカケラがここにあった、というか、また長田弘の言葉を借りるけれど、本当にいい本を読んだような感じだったんだ。
その本をそれまで読んだことがない、にもかかわらず、その本を読んで、「私」という人間がすでにそこに読みぬかれていたというふうに感じる。のぞむべき本のあり方はそうであり、そのようなしかたで、いつの時代にあっても人びとにとってのもっとも大事なことが、きまって本というかたちをとって表され、伝えられてきたというのは、宗教も法律も、文学も、それが基本で、すなわち基は本だからです。2
その作品をそれまで観たことがない、にもかかわらず、その作品を観て、「私」という人間がすでにそこに読みぬかれていた。この感覚がぴったりくるなあ。わたしという謎を解く鍵になるように思われる作品。本にせよアニメにせよ、そういうものはそう簡単に見つからない。いまパッと思いつくのでも二つくらいかな。それらについても、あまり語れるほどまだ自分自身を紐解けていないけれど。
ところでこの日記を書く、という行為は「蓄える」文化なんだろうなあ。「育てる」文化と「分ける」文化の間にあって、それらをつなぐものだとか。ふと思いついただけで、とくに脈絡はないんだけれど。
まあとにかくさ、観たんだ。ずっと観ようと思っていたアニメを。とてもよかったけど、もっと早く見ておけばよかった、とも思わないんだ。不思議なことに。観ようと思いながらも見なかった年月にもなにか意味があって、今になって観たということにも意味がある。実際にどうかは置いておいて、そう思うことで、わたしにとってこの作品を見たということの持つ意味に何かしらの解釈が生まれるんじゃないかな、なんて。なんか変なこと言っているなあ。アニメというものを久しぶりに観て興奮しているのかもしれない。このところ半年に一回くらいしか観ていないからなあ。
この話はこんなところで。
やめやめ、明日は仕事なんだから。
さあ、帰った帰った。