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あれは アジサイ だった

あじさいを見に行ったんだ。この前見に行けなかったから。
でも、見に行けなかったことについてはすんなりことばが出てくるのに、見に行ったということについては、素直に何かを言うことができない。

このところ暑いから朝早くから出かけていって、でも朝早くから人がいっぱいで、しかも朝早くから汗がだらだら出るくらい暑くって、暑くて頭が痛くなってしまった。熱中症かな。

花を愛でる心もないのに、やたらと写真ばかり撮ってたんだ。わたしも、そこにいた人たちの多くも。みんなファインダー越しにしか、あるいはスマホの画面越しにしかあじさいをみていない。それなら自宅でもできるんじゃないの、そうすればこんな暑い思いもしなくてすむのに。って、別にそんなこと思ってたわけでもないけど。

あじさいをみるなら、今週が最後なんじゃないかと思っていたんだ。来週になればもう七月だ。いや、まだ六月だった。とにかく、もう次はないだろうって、いつもなら家でぼけっとして休日を過ごすじぶんとしては珍しく、朝からあじさいを見に行ったんだよ。朝からというのもすごく珍しいな。こんな張り切っていたの、いつ以来だろう。張り切っていたんだろうか。でも朝から家を出たんだ。張り切ってたって言っていいと思うな。

でもそうやって見に行ったんだけど、あじさい、どんなだったか覚えてない。人がいっぱいいた。暑かった。みんな写真を撮っていた。わたしも写真を撮っていた。それで、あじさいはどんなだった? どうだったんだろう。写真を見返す。枯山水。みんなあじさいの写真はこぞって撮るのに、枯山水には見向きもしていなかった。枯山水っていったって、その善し悪しはわたしにはわからないけど。もしかしたらすごく悪い枯山水で、写真を撮るのもおぞましいものだったのかもしれない。だれか言ってよ。写真、撮っちゃったじゃん。

花が枯れてその跡形もないツツジに、蜘蛛の巣ができていた。この蜘蛛の巣はいつ取り払われるんだろうか。というか、これはツツジで合っているのか?

そういえば、ぽつぽつと蓮が咲いていた。ほとんどは蕾だったけど。蓮の見頃はあじさいが終わってからみたいなところがあるけれど、完全に花開いているのもあって、それを見た知らない人が「こいつはもうだめだ、明日には死んでる」って言ってたんだ。死んでるとまでは言ってなかったかもしれないが、だめだとは言っていた。だめだなんて言わないでほしかった。

あじさい、見たんだけどさ、その色とか形とか、どうやって語ればいいんだろう。語る言葉があるんだろうか。そういえば、そこに行くまでの電車で、長田弘のこんな文章を読んでいた。

 今日、銀杏並木の美しい黄葉を見ました。
 重なり合った銀杏の葉が実にさまざまに異なった微妙な色合いを映して、日の光りのなかに揺れていて、その黄葉の見事さは思わず息を吞むほどでしたが、目はそのさまざまに違う色合いを認識していても、さて、ことばで、その黄の織りなす美しいさまざまな黄色をどれだけ言いあらわせるだろうと考えると、難しいのです。
 十二色のクレヨンの色ぐらいしか色彩のヴォキャブラリーをもたなければ、黄葉の美しさをなすさまざまな黄も、結局、ただ黄色とだけしかいえないだろうなあと思う。1

この話の銀杏をあじさいに換えて、黄色を紫にしたら今のわたしの話になる。わたしにはあの色を紫としか語れない。菖蒲色? 葡萄色? 半色? 紫紺? 菫色? どれもピンとこない。
他方で、まど・みちおのこんな言葉も思い出す。

ここにコップという物がある。視覚はこれにあうと、いやおうなくこの物のコップという名前を読まされることによって、この物を水やサイダーやビールを飲むための器だと承知させられる。そしてそれですべてを忘れさせられる。たまたまはっと己が役目に気がついた視覚が、名前のうしろに隠れている物そのものを見とどけようとしても、すでに読んでしまった名前が、執拗にふり廻すコップ観による妨害をなかなか防げはしない。2

ここでは、わたしが現実にあるものを見るとき、現実とのあいだに意味が(言葉が)立ち塞がり、現実そのものを見ることができないって、そんなことを言っている。少なくとも、わたしはそう読んだ。かたや言葉の充実を必要としていて、かたや言葉を枷と捉えていて、食い違っているように見えるけれど、わたしはそのどちらも嘘を言っていると思われない。わたしは言葉に対して、どのような態度をとればいいんだろうか。この日見たあじさいについて、何を語ればいいんだろう。

写真家であれば、撮った写真でそれを語るのだろう。だけど写真だって真実を写すわけではない。いや、それはそういうものでいいのだろう。語られることが真実でないといけない、というわけではない。実際、写真家が撮った写真を見て、心打たれることがある。というかまさに心打たれてきたんだっけ。あじさいを見に行ったついでに『ザ・テイル・オブ・ゲンジ』の博物館に行ってさ、そこで写真家がその世界観をイメージして撮ったという写真を見てきたんだ。写真そのものが虚構を含んでいるし、レタッチの過程でさらに嘘の濃度が高くなって、それがプリント・アウトされた頃には真実がいくら残っているのかわからない。でもわたしはそれを見てきれいだと思ったし、映っている人が写真の中にたしかに生きているように見えたんだよ。写真ってすごいんだなってさ、あじさいの話から離れてしまったけど。

ことばだって、それが真実を語らなければならないって決まっているわけじゃない。あじさいという言葉で、その花を言い表すことによって、意味の世界ではあじさいの典型が現実のそれにとって代わる。でもそれによって現実のあじさいがなくなるわけじゃない。あじさいについて誠実に語りたいと思うのなら、するべきなのは沈黙することではなくて、わたしがあじさいを見たことによって受けた揺さぶりを、言葉を凝らして伝えようと苦心することじゃないかな。まったく何言ってんだか。なんの話をしているんだ。

とにかくさ、あじさいを見たんだ。暑い中。人がいっぱいいて、みんな写真撮っているから、つられてわたしも写真を撮っていたんだ。あじさいという花を初めて見たのはそう昔のことではなく、ここ2、3年のことで、それまでは言葉としてのあじさいしか知らなかった。6月、雨の中、黄色いレインコートの子供、カタツムリと一緒に想起されるあじさいのアーキタイプ。丸くて紫の花。わたしは長らくそれしか知らなかった。だから現実ではなく意味が先なんだ、わたしの中のあじさいは。あじさいという意味を得てから20年以上たってようやく本物を見た。あじさいは丸いだけじゃなくって、真ん中の小さな花たちを守るようにガクと呼ばれる花みたいなやつがぐるりを取り囲んでいるものがある、ということを知った。そいつは額紫陽花と呼ばれるらしく、なんだか楽しげな姿が好きになった。むろん、丸っこいやつも可愛らしくて好きだ。そんなあじさいを今日、見に行ったんだ。赤いやつ、青いやつ、白いやつ、二色のやつ、薄紅色のやつ、装飾花のないやつ、地を這うやつ、幻の……は探したけれどどれがそうなのか、わからなかった。ハート型のあじさいもあったな。色についてもっとちゃんと表現するなら、紅碧? 二藍? 光の加減、影のかかり具合によって色の感覚は変わってくるものだから、やっぱり何色だったのか、うまく言い表すことができない。遠目に見た、日陰のなかできれいに色づいていたあのあじさいは紅掛花色といえばいいのかな? 白いあじさいなんかは、葉の緑を反射してか、白緑にも見えた。そもそも語彙が貧弱なんだ。12色そろっているかどうかも怪しい。色見本を見ながら記憶に合う色を必死に探している。借り物の言葉でしかない。結局のところ、自分の言葉では「きれいな紫だった」とだけしか語れない。

でも、きれいだったんだよ。

だって好きなんだ、あじさい。

いろいろ言ったけど、あじさい。


  1. 長田弘『すべてきみに宛てた手紙』(筑摩書房, 2022) p.19
  2. 谷川俊太郎(編)『まど・みちお詩集』(岩波書店, 2017) p.110



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