われわれはこれから相互に脈絡のない小間切れの役割を演技しながら、日常生活を送り、人生を過ごすようになるだろう。嘘が、喜ぶべきものに見えてくるだろう。嘘が飾らぬものは、空しくて耐え難いものになってくるだろう。1
自分を刺激するものとしての仮面、演技、誇張、嘘、ロールプレイ。そんなものが、生活を成り立たせるための「求心力」として求められるようになる、という秋山の予言。
これを読んだとき、自分にも心当たりがあって、びくっとした。
わたしはいっとき、空想上の恋をしていて、それによる心の動きみたいなものをいろいろとメモに残していた。そうして書かれたメモは、あまり人に見せられたものではないが、自分自身読んでみたところ、なんというか瑞々しく、生命力に満ち溢れているというか、辛くもそれもまた喜びであるようにみえた。そのときわたしがやっていたのは、ここで秋山が言っているようなこと、つまり「相互に脈絡のない小間切れの役割を演技しながら、日常生活を送り、人生を過ごす」ことの実践だったんじゃないかと思う。
わたしは生に耐えるために、とにもかくにも役割を求めていたんだろう。
「あなた」のことが好きで、好きで、たまらなく好きなわたし、という役割を演じることで、「あなた」のちょっとした振る舞いとか、言葉とか、会える会えないだったり、連絡してみて返事を待つ時間だったり、そうしたものにいちいち胸がときどきドキドキときめいていたし、ただ胸に秘めているあふれる思いによって毎日が輝いていた。「あなた」の気を惹くこと、「あなた」を愛し愛される仕草をすること、「あなた」に会うために、待って、待って、待ち続けることが、生活の目標、希望、努力の動機となっていた。このときわたしは、わたしが生きられなかった子供時代を生き直していたんじゃないかとまで思う。
この一年は、テレビの「おしん」がブームだったという。おしん、の象徴的な意味合いは、生活における子供時代ということだ。子供時代には、生活の目標、希望、努力といったあの求心力が、ごく自然に生きて働いている。2
そうした演技に全身全霊で打ち込んでいる間はよかったんだけど、いまとなっては魔法が解けてしまったように思うよ。無心に役割を演じられなくなったんだ。いまも、わたしはあなたのことが好きだ。そう言ってみても、なんだか白々しさを感じずにはいられない。 それで、そうなるのと一緒に、わたしは生きる希望も無くしてしまったんじゃないかな。 だからまた死んでしまいたいなんて言いはじめたんだ。たぶんね。