今朝、今日は暑くなると聞いていたので、いつもより薄着で出かけた。Tシャツに合繊のカーディガン。心もとないような気がしたが、それでちょうどよかった。外を歩いているうちは、それでも暑いくらいだったが、店の中だと空調が効きすぎて肌寒いこともあるので、このくらいでちょうどいい。
大型書店でペンクリニックの予約をした。自分が予約したとき、予約はあと5枠くらいだったので、なかなか危なかった。
ついでに本を三冊と、栞を購入した。今月は買い物を控えておきたいところなのだが、書店に行くとついつい買ってしまうのだ。とはいえ、税抜き価格で500円以内の本のみを買うという縛りを設けることで、一応の節約はした。買ったのは以下の三冊。
- 中原昌也『マリ&フィフィの虐殺ソングブック』(河出文庫, 2000年)
- ルソー『孤独な散歩者の夢想』(青柳瑞穂訳, 新潮文庫, 1951年)
- ガブリエル・ガルシア=マルケス『予告された殺人の記録』(野谷文昭訳, 新潮文庫, 1997年)
それにしても暑かった。これでまだ4月というのが信じられない。
バーガーキングで昼食をとる。バーガーキング、自分が現在住んでいる地域からは撤退したと聞いていたのだが、いつの間にかまた店ができていた。あるいは、撤退したというのはどこか別の店の話だったのを間違って記憶していたのかもしれない。
そういえば、クリスピー・クリーム・ドーナツの店舗も、自分の地域からは撤退していたはずなのだが、いつの間にか新幹線の止まる駅に小さい店舗ができていた。
バーガーキングのいいところは、タッチパネルで注文できるということだ。同じ理由で、松屋やなか卯も気に入っている。逆に、口頭で注文しなければならない吉野家やすき家には行かない。といっても、この前、満を持しての新商品であるらしい親子丼を食べに、吉野家に行ったのだが。吉野家の親子丼はなかなかのものだった。なか卯よりも値段が安いという点でも優れている。吉野家については、なんだかひと騒ぎあったらしく、それによって足が遠のくのはもったいない。そんなことを思った。
さて、バーガーキングだが、メニューのカスタムなどもすべてタッチパネルで行うことができるので、口頭で注文するときのように、事前に色々調べておく必要はないし、注文するときに緊張で口ごもることもない。無料でソースを倍にするときに、人目を気にすることもない。スターバックスもこんな感じで注文できればいいのに、と思う。自分は呪文のようなオーダーどころか、エスプレッソのショットを追加することですらなんだか気後れしてしまうのだ。そういえば、ここ数年スターバックスに行っていない。この前スターバックスカードを見たら、3千円ちかくチャージされたのが残っていた。しかし、近場のスターバックスはどこもかしこも混み合っているので、なかなか行く気になれない。
昼食後、通勤定期の範囲まで歩いていき、駅の周辺でもう少し時間をつぶし、帰宅する。
ここ数日は毎日、同じようにして一日を過ごしている。仕事が休みの日でも、平日は家に居てはいけないことになっている。理由はわからないが、そうなっている。また、今の仕事先は3か月にひと月、休みが多い月ができる仕組みになっている。そのため、連続して何日も外で時間をつぶさないといけないことになる。これが偶の外出であるなら、もっといろいろ遊びたいと思うのだが、毎日、今日はここへ行こう、明日はあそこへ……などと考えてあちこち遊びまわるのは、心身ともに大変だ。それに、流行り病の心配が完全になくなったわけでもない。そんななか、あちこちに行くのはリスクを伴うことでもある。だからこうして、毎日同じような範囲を歩き回って時間をつぶしている。
図書館とかが活用出来たら、そこで一日中本を読んで過ごす、というのもいいのだが、近くにある図書館はどこも息が詰まりそうだ。なぜだかよくわからないが、長い間とどまることができない。だから、図書館では過ごせない。
漫画喫茶とか、ネットカフェとかとは縁遠い人生だったために、そこへ気軽に行くこともできない。それに、軽く調べた感じだと、個室だとなかなかの値段がする。だからといって、テーブル席的なところをとるのなら、普通の喫茶店でいいや、なんて思う。漫画喫茶とかネットカフェは自分の中では未知の空間であるため、恐れがある。その恐れを振り切って行くくらいなら、喫茶店でいいや、ということになる。
そんな感じで休日が過ぎていく。四月もあと少しだ。四月が終われば、また仕事尽くしになるだろう。ほっとしたような、がっかりしたような気持だ。
ところで、自分はいま、日記を書くことができているのだろうか。
いまだに、自分は文章を書くことに苦手意識がある。それどころか、文章なんて書けないと思っている。上記の記録も、文章として書かれてはいない。短い文を列挙して、それらしくつなぎ合わせただけのものである。なので、そこには流れがない、ように見える。しかし、このように書くと、安全に文章のようなものを書くことができる。一つ一つの文を、ごく短いものにするように努めるだけで、偽りがはいり込む余地を排除できる。
逆に、前から後ろへと一つなぎに書いていこうとすると、どうしても余計なものをつけてしまう。誇張とかでまかせとか、そういったものだ。そして、そうしたものを付け加えている自分に気がつくと、文章の中でそれを指摘してしまう。そうしているうちに、訳のわからない塊が出来上がる。また、文章の中で指摘しなかったとしても、出来上がったものは、なんだかいびつなものになっている。
昨日の文章は、その典型だ。このブログをはじめて以来、こんなのを定期的に作っている気がするが、こんな文章を書きたいわけではない。
しかし、他方で、文章を書く、ということに幾許かのこだわりがある。というのも自分には、自分の見たことや聞いたこと、考えたことや感じたことを、少しでも多く覚えておきたいという思いがある。つまり、記録のために多くの文章を書きたいと思うのである。この点で、自分にとって文章を書くことは必要なことなのである。
また、こちらは抽象的で、不確かな思い込みのような理由になるのだが、自分の中の世界は、それを何らかの形で外に出して、自分の外の、自分ではないものとして見、それを再び自分の中に取り込むことによって、より豊かになると考えている。そして、「その何らかの形」というのは絵を描くこととか、音楽を奏でること、あるいは友達に話すことでもいいのだけれど、絵は描けないし音楽のセンスもなければ友達もいない。他方で、文章であれば、言葉を知ってさえいればできるように思えた。他のものよりもまだ、望みがあるように思えたのだ。
……と、なんだか文章として書いている自分に気がつく。自分にとって大切なことを書こうとしている、というような気がするのだが、偽りが入り込んできてしまうと、また混沌が出来上がってしまう。自分にとって大切なこと、自分を動かすものがなんなのか、という話はもっと慎重に書きたい。なので、これをここで話すのは、いったんやめておく。以上。